同時に起りうる小説のオーケストレーションを、ピアノかそれ以下の単音としてみてしまうこと。
 このスケールの縮小もやはり、詩やいわゆる「ことば」を基準とした二種類の小説の文体のとりちがいが起こる。 。ひとつめは作者のもつ「ことば」そのもの、あるいは母国語そのものと格闘してしまうケース。またひとつは、5つの文体のかのひとつをとりあげ、それがすべてとみたてるものである。

 「ことば」と格闘する、この格闘のため前後不覚となり、小説の言葉というものが作者や、母国語というものにすべてのみこまれるかたちとなり、作品やジャンルというものが無視されてしまう。
 「ことば」と格闘すること。たとえば文体となる「ことば」が、作者の才能の産物であるとする。その「ことば」は作者が所有する。
 あるいは母国語(わかりやすくいえば、例えば方言や、固有の言葉が持つ特性)の特殊性などにのみこまれてゆく。その「ことば」はある特殊な地域、国に属していて、小説のジャンルは無視される。

 この場合作者個人の「ことば」であろうが、国民ぜんたいの「ことば」であろうが、地方独特の「ことば」であろうが、小説のジャンルや作品というものが、これら「ことばの源泉」とかいうものにのみこまれているのには変わりがない。こうなってしまえば言語母国語と言おうが、文学文学と念仏を唱えようが一緒となる。
 これらにことばの源泉をもつこと、作者や母国語に帰属することを基準にしたとき、研究者がいくらこまやかで詳細な「ことば」にかんする考えを述べたとしても、その「ことば」はすべて言語学上の成果として言語学にすべてかっさらわれる。