いままでの経緯から、伝統的な文体論、詩の文体論では、文体の統一というものが必要不可欠であると考えられている。ある「ことば」の統一。母国語とは何か?言語とは何か?。あるいは作者の個性の統一。作者の真意とは何か?作者の神髄とはなにか?
 これらの統一性は、詩の文体では必要不可欠な前提条件とはなっている。だが、小説は、これらの条件を必要としない。さらに真の小説の前提となるのは、これら言語の統一ではなく分化であり、社会の持つ言葉の多様性。個人のことばの多様性である。
 そもそも、作者の統一が可能となるのは、小説が持つ多様性のある言葉によってであるから、こういった個性の統一というのは二重のごまかしというよりほかはない。


小説家のもつ肉声のようなものがその小説のすべてだというのは間違いである、詩についてはそれが言えるのだろうが、小説は様々なレベルを持った言葉が同居し分業しているしくみや、また小説の言葉がもつ多様性というのに焦点がおかれるべきだ。
この小説の言葉のもつ多様性のしくみを、すべて作者の肉声にひきもどそうとするのはおかしい、それよりも見方は逆で本当は多様性のあるなかから作者の言葉らしい要素を都合よくひろっているにすぎない。