伝統的な文体論というのはこれまでにたとえば「イメージ」とか「個性」とか「シンボル」とかいった言葉でものごとをさししめしてきた。これらのどの用語の使いかたも個々人でまちまちであるにもかかわらず、どれも単一の言語、単一の文体、狭い詩的なジャンルというものでやりとりされている。このように排他的かつ詩的に伝統的文体というものが存在してきた。
 かくのごとくよこたわっている、伝統的文体のなかの詩というものは、哲学的にかんがえたときも狭いもので、とうてい多ジャンルを有する小説の文体というものが包括されはしない。

 伝統的文体論というものに横たわる詩というものを認めたうえで、さらに小説の言葉がその詩よりも幅ひろいものをもっているとすると、この先文体について考える方法はふたつしか残されていない。すなわちひとつは、詩の言葉と違う文体も有する小説というものを、文体から占めだし、ひいては芸術というジャンルからも閉めだしてしまうこと。そしてもうひとつは、現在までに考えられている詩の言葉についての考えかたを、根本からみなおすことである。
 しかし誰もその先の文体についての思考を積極的にしようとするものはない。たれもじぶんじしんの文体論の哲学的根拠を考えようとしない。あるのはより直線的に、作者の個性というものを信じようとする心意気だけである。