会社を出て駅まで歩いている途中にビール欠乏症により眩暈がした ので、急いで駅前の今までに入ったことのない串焼き屋さんに入っ て生ビールを三杯飲み、一息ついたところで帰宅する。最近はアル 中というよりビール中毒の気があるな。
小西くんが引っ越すというので出かけていって、皆がせっせと働く のをビールを飲みながら眺めて、引っ越しが終わった後は、新居で さっそく昼寝を敢行する。新しい部屋はとても広く、大変うらやま しい。
小西くんの友達の女の子は気がつくと食器を洗っていたり、灰皿を 換えていたりと非常に甲斐甲斐しく働き、そんなことをする人は僕 が知っている人の中ではお母さんしかいないので、お母さん系ギャ ルということにしておく。
金曜日の夜にテレビ朝日でやっているトリックというドラマが面白 いので関連情報を調べていたら去年 TBS やっていたケイゾクとい うと同じ人が撮っていることが解って、ケイゾクをやっていたころ 岡くんが面白いと言っていたが野口五郎が出ているという話でどう せカックラキン大放送というような昔のことを持ち出してきてどう にもならなくなると思って話を聞いていなかったのだが、トリック を見て面白いに違いないという確信を得たのでビデオでとりあえず 二時間ドラマの特別編、「死を契約する呪いの樹」を借りてきて見 ることにした。
今日は本編の一巻目を見る。
職場の人と飲みに行って、他の会社の人なんだけど、仕事で東スポ の編集部でシステムの運用をやっていたら、たまにその仕事をして いるところの後ろの方で裸の女の人を写真に撮るのをやっていて気 が気ではなかったという話を聞いた。
久しぶりに会社の近所の牛タン屋さんに行ったら、もう一件店を出 して、焼き鳥屋を始めたとかで、知らない間に多角経営に乗り出し ていたらしい。今度行ってみよう。
十二時くらいから加藤くんと庄屋で飲む。アフガニスタンにおける タリバンの支配と、アメリカとイスラム教圏の対立の構造、イスラ ム教圏における女性の位置づけなどについて熱く語っていたら、加 藤くんが寝始めたので引き上げる。
ケイゾクを最終回まで見る
中谷美紀が演じる柴田純というのが主人公で、この柴田純というの は太陽に吠えろで松田優作がやっていたのと同じ役名らしく、ドラ マが佳境に入り、後ろからナイフで刺される場面では、自分の背中 の刺された所を触って手についた血を見てなんじゃこりゃと言った りする。その他にも、泉谷しげるの演じる刑事が定年で警察を去っ ていく場面では警官たちが敬礼をして送り出すというのがあって、 これは踊る大捜査線から持ってきたものだろうし、鈴木紗里奈が邪 魔をする刑事を半透明のビニールで包み、口の中に柿ピーを突っ込 んで椅子に乗せるのは沙粧妙子・最後の事件での人の殺され方と同 じで、ただし口に突っ込まれるのは本当は柿ピーではなくて薔薇の 花であるのは言うまでもない。
このようなパロディという形で他のドラマを参照するのは、最近の アニメではよく行われているらしくて、それは話の筋とか、人物の 設定において行われた過去の作品への参照、つまりその作品を作る のにどのような過去の作品の影響を受けたのかを作り手と受け手の 間で共有することを意図したものであると考えられる。その背景を なす諸作品の系譜の中にその作品を位置づけることにより、ドラマ、 あるいはアニメといったジャンルそのものの魅力によってその作品 を取り囲むことになって、ジャンルというのはそれぞれの作品の相 互参照の体系として成立するのであり、ある作品をその体系の中に 位置づけるという普通に考えると後づけであるはずの作業が作品を 作っている段階で行われていることが解る。
しかしこの過去の作品との参照の体系に対する意識というのは特別 に作品の魅力の根幹をなすというわけではなくて、殺人を実行した 犯人を逮捕しても実はその犯人を影で催眠術のようなものを使って 操っていた本当の犯人がいるという最近の推理ものに頻繁に使われ る話の筋と同様に、犯罪が起きてその謎を解明して犯人を見つける というポー以来変わらない探偵小説の構造の持つ魅力をどのように して最大限に発揮させるかという目的のために使われる小道具に過 ぎなくて、しかしそこに工夫を凝らすということが全てであるとも 言える。
それでポーの「構成の原理」などを読み返そうという気になるのだ が本棚を眺めても見つからなかった。どこかで借りてよんだのだろ うか。
中谷美紀は桜っ子クラブ桜組で Key West Club というのをやって いたと思うのだが管野美穂とともに桜っ子クラブ桜組出身の二大女 優ということでこれからも注目していきたい。
SUN が国際化関係のソースコードを X.org に提供するというのと、 ATOK X の発売によってにわかに注目されている IIIMF ではあるが、 にわかには何が何やら解らないので、とりあえず ATOK X を買って きて、 IIIMECF (IIIM Emacs Client Framework) でも試せばいいのかな。
XEmacs はプロポーショナル・フォントを使えるので、一文字の大 きさはその文字によって変わるということと、Mule 機能によって 文字集合ごとにその文字集合に該当するフォントを使うということ があって、この二つが組合わさると、等幅のフォントを使ってもア ルファベットと日本語が混ざった場合、それぞれの文字集合用のフォ ントが同じ幅でない限り、全体としては等幅にはならないという問 題があって、これは X だったら、文字集合をまたがって同じ幅の フォントというものがあるので問題ないのだが、Windows ではそう はいかない。例えばMSゴシックと同じ幅の Roman のフォントは 多分ないので、そのために会社で他の人がソースコードのコメント を一生懸命きれいにそろえて書いたとしても、僕が XEmacs で見る とぐちゃぐちゃになってしまう。
cb2tt などを使って、等幅のフォントを作るというようなことをしてもい いのかも知れないが、XEmacs をいじって minimum-line-ascent と いうような高さを調節する機構のような感じで、 minimum-char-width というのを作り、これで対応するとうことを 考えた。しかし文字の出力は X の XDrawString とか Windows の ExtTextOut とかに複数の文字をまとめて渡しているので、これを 一文字ずつ幅を調節しながら出すようにすると非常に遅くなるよう な気がするのでどうしようか。
それでちょこっと調べたところによると、ExtTextOut には一文字 ごとの幅を指定することは可能そうで、X のほうは XDrawString ではなくて XDrawText を使えばいいのかな。
どうも大雨が降ってえらいことになっていて、会社の人が心配して 実家は大丈夫なのかと電話をかけてきたりしたので、ちょっと連絡 をしてみようと思って実家に電話をしたら回線が込み合っていると かでつながらなくて若干の不安を感じたものの、しばらく経ってか らもう一回電話をしてみると、うちの実家は別に何ともないようだっ た。それで堤防が決壊して洪水になっている西枇杷島が実家の佃く んに電話をしてみたが、電話にでなくて、洪水ネタは今度実家に帰っ たときに聞くことにする。
ExtTextOut の一番最後の引数が文字ごとの幅を入れた int 型の配 列で、これを使って表示する一文字の幅をフォントのデフォルトの ものとは別のものに出来る。例えば「aあ」という文字列を一文字 の大きさを 8 で出力しようと思ったら {8, 16} とすればいいよう に思ったのだが、実は違って {8, 8 ,8} という風にしなければい けなくて、つまり文字ごとの幅ではなくてバイトごとの幅を入れる らしい。マニュアルには character ごとの幅って書いてあるんだ けど、実際には char ごとの幅で、これでマニュアルに character とかあるいは日本語で文字とか書いてあったら、それがひょっとし たら C 言語の char のことではないのかという疑いを持つ必要が あるということを学んだことになる。コンピューターに親しむには このような経験に基づく山勘を養うことが重要であるように思う。
それで、欧文は Courier New で日本語はMS ゴシックをそれぞれ 12 ポイントで使った場合なにもしないと、
となるところを、
こんな感じできれいにそろうようにすることが出来るようになった。 でも普通に日本語だけを表示させると非常に横に間延びした間抜け な感じになってしまうところが悲しいが、これは慣れればなんとか なるでしょう。
Public Beta の配布が始まったらしいが、正式に対応する機種は G3 とかG4 を積んだやつだけど、うちのは 7300 という機種で、一 応 Darwin は動くらしいので、実は OS X も動くのではないかと期 待していたりする。さすがに新たに Mac を買おうとまでは思わな い。
直さんのうちに遊びに行き、一人当たり五合程度の日本酒を飲んだ 集団が暴れた結果、食器棚のガラスを損壊した。
今まで単行本には入っていなかった短編というよりももうちょっと 小振りの小説を集めた本で、これらの作品の特徴は一定の方向に対 して集中していく形で飛躍するフレーズの積み重ね、あるいは造語 というよりも慣用表現を捏造することによって国語という制度の屋 台骨を揺さぶるような多和田葉子の文章のその文体の性質にあるよ うに思う。そこでの飛躍する表現を寓話という形で読み、ある感覚 が言葉によって説明されたことによる解放をそこに感じることがで きる場合もあるが、そうではなくてその寓話性をつかめない部分に 巻き込まれると、特定の映像を結ばない映像に取り囲まれて地面か ら切り離されたまま身動きが取れないような感じになり、この決し て解放されない言葉の集中していく運動に目を向けると、ほとんど 吐き気を覚えるほどである。
ファミレスで本を読んでいたら、隣にいた三人組がパソコンを広げ て日記だの掲示板だのチャットだのという話を始めて、それを聞い ていてそういうものをあまり何の考えもなしに使っていることによっ て人付き合いというものが際限なく希釈されていくのではないかと いうことをふと思う。
映画版を見た。悪い意味で全くまとまりがないように思えた。
Ben Wing さんが Windows 向けに変更しているやつのスナップショッ トが こんなところ にあるのを見つけたので、落としてきて見てみたら、CVS でマージ したときのコンフリクトがそのまま残っているようなやつで、コン パイルが出来るようにするだけでも、結構大変そうなので、そのま ま放っておく。
こういうことがやりたい。まず Windows 対応としては Ben Wingさ んのやつとマージして、さらに UTF-2000 も Windows で動くよう にする。それで Meadow のコードを使って BDF フォントも使える ようにして、さらにフォントの指定を XLFD とか Windows 用の "Courier New:Regular:10::Western" みたいなのに依存しないよう な形、要するに X でも Windows でも同じような形でフォントを指 定できるようにする。
それでさらには今の文字ベースのスクロールから glyph も含めた ピクセルベースのものにして、ポイントが glyph の中に入ってい けるような仕組みも欲しくて、要するに操作性を維持しながら細か いグラフィカルな表示の調整が出来るようにしたい。
コンピュータを使っていて一番ストレスがたまるのが目的のファイ ルにたどり着くのに時間がかかることだと思うので、これを何とか するような自分好みのファイラーを XEmacs のそういう機能を使っ て作ってみたい。
それにしてもここ数ヶ月は pdump とか layout glyph とかWindows 向けの Mule とか主だった新機能のプロジェクトに全然進展がない ように見えるのだが、大丈夫だろうか。
マイペディアやランダムハウスの EPWING 変換スクリプトなどの作 者で、その他にもいろいろと活躍されているかずひこさんという人 がいて、その 日記 では主にフェミニズムの話題を扱うということらしく、夫婦別姓と か共働きとか相撲の土俵に女が乗ることとかいう話が書いてある。
フェミニズムというのは扱う範囲が非常に広いので、男女の雇用機 会均等というのだと労働運動だし、セックスとジェンダーの分離と いう所からじゃあ純粋に解剖学的な男女の違いというのはどこまで かとか、あるいは心理学での性差の扱いも問題になるし、家庭での 性別による役割分担とかメディアでの女性像とかの分析もあるし、 書き言葉の男根中心主義に対する批判は文学において重要な役割を 果たす。要するに多様な分野において、その批判、および批評活動 の原理となる要素を持っていて、これはフェミニズムがそういう各 分野における批判原理を取り込んでいく性質のものであることも意 味するので、つまり総合的批判の実践としてフェミニズムというも のがあると考えられる。
夫婦別姓に対する反対意見として家族の結びつきが薄れるというの があって、これは夫婦がどうのこうのというよりも同姓を名乗るこ とによって結びついている家族というものの機能が衰退することを 問題にしている。
近代的な社会においては個人の行動はその個人の責任によって行わ れる。そのそれぞれの個人が共同で活動を行うまとまりが社会であっ て、個々の事柄に対する責任の所在、つまり最終的にその事柄につ いての主体というのを定義する契約の関係によって社会が成り立っ ている。しかし家族というのは例外であって、子供は親に対してそ の親の子供であることに主体的な責任を持つことは出来ず、個人間 の契約というのは親と子供の間には存在しない。このことによって 親は子供に対してその子供が未成年の間は全ての責任を負うことに なり、また社会に対してはその子供の責任を代行する。未成年とい う場合以外にも、個人が怪我や病気によって通常の判断能力、ある いは責任能力を失った場合、その個人に代わって判断を行うのは家 族である。このような家族の機能を維持する必要があるのは、社会 の中から個人の責任の体系に属さない要素を家族という形態の内部 で吸収することによって排除し、社会を安定した個人間の契約の体 系として機能させるためである。
そしてこれはあくまでも理念であって実際の社会がそうなっている わけではない。少なくとも日本ではこういう近代の理念を本気で実 践に移すということはしていなくて、制度上は近代的な社会、家族 という形をしているが、その制度が理念としている責任の主体の明 確化というのは機能していない。これは責任の保留を行うものとし ての家族という機能も意味をなさないので、家族がなくても責任の 主体としての個人というのは社会の中で保留される。つまり個人は 自ら責任の範囲を明示的に規定することは出来ないので、これは個 人という範囲が社会の中では存在しないことを意味する。このよう な社会においては、家族の役割は責任のある個人というものの例外 を吸収することではなくて、家族そのものが擬人的に責任の主体と して社会の一部をなし、家族をなしている個々の人間がその擬人化 された家族の責任を代行するという形をとる。この仕組みは家族だ けではなくて会社とか学校とか仲間内とか地域とかそういう集団に ついても同様に働いていて、責任の主体となるのはあくまでも集団 であってそこに属する個人ではない。
これで家族が同じ姓を名乗ることの意味が明らかになるので、姓と いうのは自分の名前である前に家族の名前であり、実質的に社会の 中で主体として機能するのは自分個人ではなくて家族である以上、 その家族の責任を代行しているのに過ぎない個々の人間はその家族 をあらわす姓を名乗る必要がある。夫婦別姓というのはこの家族と いう主体を代行するものとしての個人という仕組みから逸脱した個 人が社会の中で活動する土台になる可能性があり、家族を最小の責 任主体の単位とする社会の仕組みが揺らぐ。
経済学の本というのは数式とかグラフとかが出てきて、普段は字し か書いてない本しか読まないのでつらいのだが、この本は字しか書 いてないし、出てくる経済学者の名前はアダム・スミスとマルクス とケインズくらいで、読み物としてもコラムニストっぽい面白さが あって大変読みやすい。それでこの本から得たネタを元に昨日の話 を続ける。
昨日書いたのは近代の理念としては、個人というのは主体として社 会の中での契約によって限定された責任の範囲を示すものであり、 しかし日本の場合は近代的な社会制度を持っているが、実質的な責 任の主体は個人ではなくて家族や地域、会社といった集団にあり、 個人の活動はその集団の責任を代行するものでしかないとういこと だった。これは村社会と呼ばれるような日本に特殊な社会を土台に、 近代的な制度を上乗せしたものが日本の社会であるということであ るが、もし近代的な社会制度と日本の村社会というものが全く対立 するものならばそもそもこのような社会が成立するはずはないので、 責任の範囲としての個人というものとは別の方向から近代の社会制 度を見て、それがどうして日本的な村社会に適合出来るのかを見る 必要がある。
国民主権というのは近代になって成立した国家制度であり、これは 国家の行う活動の責任の主体が国民にあるということを基盤にした 制度である。岩井克人のさっき読んだ本で行われている株式会社の 説明では、人間を主体としてものの売買をするというのが経済の原 則であるときに、法人というのは売買をする主体である擬人的な存 在であると同時に資本家によって所有されているものでもあり、さ らに株式会社になると会社を所有するのは株主であるが、株主は株 主総会によって間接的に会社に対する権限を持つにとどまり会社を ものとして直接あつかうことは出来ず、会社はより主体的な存在と なって、従業員を雇用するというのはつまり労働力を買い生産を行っ て商品を売る。
ひょっとしたら軽率なことかも知れないが、この株式会社というも のの性質を国家を説明するのに使いたい誘惑に駆られる。つまり国 家というのは株式会社であるとしたら、国民は株主であり、選挙は 株主総会であってそこでは経営者を選ぶかわりに為政者を選ぶ。そ して選挙権と同様に被選挙権も国民の権利であるのでここでは株主 である国民は自分たちの中から経営者を選ぶことになるので、これ は会社にとっては本来は購入するものとして、つまり外部として扱 われる労働力というものが、国家の擬人的主体性の根拠をなす株主、 つまり所有者としての国民と同一の集団の代表であるということに なり、要するに国家にとっては外部というものが存在しないことを 意味する。
そして国民が国家に対して持っている責任はこの選挙をするという ことのみであり、株主が会社に対してするように、会社を解散する とか、売却するとか、あるいは個人として株を売って株主をやめる とかいうことを国民が国家に対してすることは出来なくて、国家を 解散することも、国民であることをやめるこも不可能であり、近代 の国家制度のもとでどこの国の国民でもないということはパスポー トがないわけで、自由に移動することも出来ない。
昨日書いたように社会の中で責任の主体となり得ない未成年は家族 によってその責任が代行され、それが家族であるのは子供を家族の 一員とすることを選択した個人が子供に対しての責任を全面的に持 つためである。しかし個人が国民の一人となるということは株主が ある会社の株主になるのとは違ってその個人の責任において国民に なったわけでもなければ、その個人が国民であることに責任を持つ 子供にとっての親のような他の個人がいるわけでもなく、その責任 は国民という集団のなす主体によって代行される。そしてその国民 という集団が主体として持つ責任は選挙という間接的な形でしか個 人の責任には還元されず、選挙を棄権することは出来ても選挙権を 放棄することが出来ないので選挙というのは個人の責任を制限した 上での制度であり、そもそも国民であることに責任のある個人とい うものはいない以上、国民という集団の持つ責任は、責任の主体と なる個人相互の責任範囲に対する契約によって成り立つ近代社会に とって例外的に個人という単位を根拠として持たない責任主体であ ると言える。
日本の村社会における家族とか地域とか会社とかの個人に還元され 得ない集団責任の体系はこの近代の国民国家という制度の縮小とし て見ることが出来る。そしてこの日本の社会体系の支柱となるのは 制度的に責任主体としての個人となることが全く不可能である象徴 天皇というものであると考えられる。
新宿駅の新南口にあるアメリカの地ビールがいっぱいある飲み屋に 行くが、アメリカの地ビールよりも日本の生ビールの方が好きなの でそっちを飲んでいた。
しじさんのパリ旅行の写真を見て、自分も旅行に行きたくなったの だが、今まで一回も海外旅行に行ったことはないので、考えただけ でも緊張する。
ふと、ルソーを読んだりして、こんなことを考えた。
古典主義というのはヨーロッパでのギリシャやローマといった古代 の発見であって、これによって中世のキリスト教に基づく固定され た人間観を開放した新しい人間観が登場する。これは古代における 人間とキリスト教における人間との二つを起源とする近代の人間の 成立を意味し、これはその後のヨーロッパの普遍化、世界化を支え る支柱となる。古代において人間というのは自由人であることであ り、これは奴隷ではないということであって、つまり人間であると いうことは奴隷という存在を前提にしていて奴隷ではないことによっ て根本のところでは保証されるという、排他的な関係性を前提にし ていた。これに対してキリスト教における人間は神のもとでの平等 というものを前提としていて、人間は神という絶対の存在を根拠に したものとして存在した。
そのギリシャとキリスト教という二つを起源として人間の近代化が 行われる。神という絶対のもののもとでの無力な存在であった人間 は、お互いの関係性によって成立する自由人というギリシャの人間 を参照して自分の意志を持つようになり、これがキリスト教徒とし て課せられていた内省の習慣と結びつくことによって理性に対する 意志となり、人間の理性に対する解放として啓蒙というものが成立 する。そして神のもとでの平等は国家や法といった人間の意志を根 拠とするもののもとでの平等へと変化し、それは自由な意志を前提 とする以上、自由な意志を持たない奴隷の存在は否定される。ルソー は国家というのはそれに参加する人間が自分の意志を全て捨てて国 民全体の意志、一般意志へと統合するという社会契約によって成立 すると考え、その形以外での意志の放棄を認めないので、よって個 人の所有物として自らの意志を放棄した存在である奴隷になる権利 を人間には認めない。
近代の人間は自由と平等をその性質として持っている。そして自由 は他のものの不自由に対する対称性によって成立するし、平等は神 のような絶対的な存在を前提とする必要がある。この対象性、およ び絶対性を基盤とした自由と平等に対する不断の意志が近代の普遍 性であり、奴隷を解放することによって奴隷と自由人という絶対的 な対称性を例えば金持ちと貧乏人というような相対的な対称性へと 解消し、神という絶対的な超越性を国家という一般的な超越性へと 解消した。このような絶対性の差異性への開放とその原理の普遍化 が近代の拡大する運動の原動力である。
家でビールを飲んでいたら加藤くんが来たので大吉に行ってさらに ビールと日本酒を飲み、家に帰ってきてさらにウィスキーを飲んで いたら寝る頃にはかなり頭が痛くなってきた。
久しぶりに松よ志に行って、その帰りにちょっと気になったのでホ レホレに入ってみたら、客が来るのがよっぽど珍しいのかびっくり した顔をして迎えられた。それで店のおっさんにこの近所で遊ぶと ころなんてあるんですかと聞いたら、いやあこんな田舎じゃだめだ よ、俺は休みの日は下北とかに行くね、などと言っていた。なかな かしょっぱいおっさんだな。
やっぱり海外旅行に行きたくなったので、会社で来月に旅行に行き たいので一週間くらい休み取っていいですかと言ったら、海外旅行 というのは普通三ヶ月位前から計画を立てるものだと諭されて、来 月に行くのはあきらめた。旅行の準備というと何をしなければいけ ないのだろう。英会話の練習か。というかまずパスポートを取らな いといけないな。
オリンピックのテコンドーで銅メダルを取った人がめちゃめちゃ面 白い。子供の頃から空手をやっていて大学に入るとチアリーダーを やるが二ヶ月でやめてラグビーなどをやった後にオレゴン大学に行っ てテコンドーに出会ってテコンドーをやるためにソウルの大学に留 学したという経歴で、これからはテコンドーの道場をやろうかと思 うが、食っていけるかどうか解らないので司法試験を受けようと思っ ているらしい。
喋るのは関西弁でインタビューで泣きながら「何かようわからんけ ど、メダルとか取れてほんまうれしいです。私一人の力ではなくて コーチとか監督とか樋口君とかのおかげです」とか言っていて、突 然何の説明もなく樋口君とかいう固有名詞が出てくるところがほの ぼのしていて、野球とかサッカーとかのテレビ慣れしている人より も、こういう四年に一回しか注目されないような人たちがいっぱい 出てくるところがオリンピックの面白いところだと思う。
ところでマラソンで金メダルを取った人がゴールした後にコーチの 所に行ってコーチに近寄った瞬間に「コーチ、酒臭いです」と言っ て、コーチが「いやあ、のどが渇いたからビール飲んじゃったよ」 と答えたというのは本当か。
最近パソコンで音楽を聴くというのがなぜか面白くなったのだが、 うちのパソコンはサウンドカードはついてないし、CD-ROM ドライ ブも昔の CD を何か四角い入れ物に入れてからドライブに入れるや つなので、サウンドカードと CD-ROM を買ってきて付けてみた。つ いでに BIOS のアップデートというのを結構どきどきしながらやっ て、これで一ヶ月に一回くらい何の前触れもなく止まってしまうと うのがなくならないだろうか。でも何も入ってない CD ドライブに アクセスしたら突然リブートしたんだが大丈夫かな。
最近の CD プレイヤーのソフトは CD を入れると CDDB を検索して曲名の表示をしてくれて、輸入盤で有名なやつならたい てい見つかってその表示された曲目をマウスでクリックしながら曲 を聴くのはステレオで聴くのとは趣が変わって面白い。