フリーソフトウェアがどうして必要になったのかというと、独占的 なソフトウェアが登場したからであって、ソフトウェアを独占的な 形で配布することになったのは、それまではそれぞれのソフトウェ アはハードに依存した形でしかありえなかったのが、C 言語と UNIX の登場によってハードからは独立したものとして、ソフトウェ ア単独でものとして成立するようになったからということがある。 その単独でものとして扱うことが出来るようになったソフトウェア は、しかしソースコードという形をとる限り、それの改変、改変物 の配布が簡単に行えるので、商品として必要なものとしての一貫性、 つまりいくら複製されてもそれを同一のものとして認めるような仕 組みがなく、ベンヤミンの言うところのアウラがそこには成立しな いので商品として流通するのが困難になる。この問題の解決策とし てソースコードの秘匿と改変の禁止という仕組みを作り、その唯一 のオリジナルからの一回目の複製、というのはつまりコンパイルに よって出来上がったバイナリのみを配布することにより、商品とし ての一貫性が保てるようになったと言える。
朝、起きれなかったので会社は休むことにしてそのまま寝ていて次 に起きたら夕方の五時だった。眠りすぎて頭が痛い。
池袋のとり久という日本酒を頼むたびに五分くらいその銘柄の蘊蓄 を聞かせられるところに行って酒を飲み、その後石神井に行って灰 皿が飛んだりするなかを三時くらいまで飲む。
二日酔いなのに牛丼を食って胃の調子がさらに悪くなる。
ただでさえ胃の調子が悪いのにさらにラーメンを食べ、その上、夜 中に居酒屋に行って飲み食いをしたのでますます悪化する。
年度というのは一月ではなくて四月から始まる一年の単位で、その 一年を半分に分けて上期と下期という半年で一つにしたこの恐らく 会計の単位であるものは九月で終わって十月から始まるので、それ で会社の部署の人達が皆で集まって会計の報告を聞くような集まり があった。前にマッキントッシュを使っていてその関係の雑誌をよ く読んでいた頃はアップルの業績というのはそういう専門紙におい ては重要なニュースでその時の感じだとアップルは四半期、つまり 一年を四つに分けた単位で会計を発表しているようで、これが僕の 行っている会社だと半年単位になるのはアメリカと日本の違いなの だろうか。
会社というものを会計上の単位、つまり売り上げとか利益とかの数 字によってその価値を根拠付けるものとしてみた場合は仕掛かりの 残が黒字だとか赤字だとかで、それによって今期の赤字は来期には 吸収できるというような会計上の専門用語で説明されるもろもろの 数字というのは意味を持つのだろうが、そういうのには全く興味が ないわけではなくても、会社が儲かっているかどうかなどというの は要するに他人が儲かっているかどうかということに過ぎないので、 会計を担当している管理職の人しか興味がないんじゃないだろうか。 儲かっている会社の方が従業員にとって働きやすいということもな いだろうし。
1996年からこのかた自分のうちのなかにカメラを設置してリアルタ イムで自分の様子を公開しているという Jennifer さんのページを見たりしていたが、何が面白いかというのはもちろ ん全く解らないが、人に見られているということを考えると生活に 張り合いが出来るということでもあるのだろうか。Life is a showtime、すぐに解るのさ〜って感じか。小沢健二って最近何やっ てんだろう。
割れ目でポンを見ていたら小柳ルミ子が圧勝で、半端じゃない牌の 止まり方だった。チャンネルをケーブルテレビの方に合わせるとゴ ダールの One Plus One とかをやっていたので、それと麻雀を交互 に見ていた。
さいたま新都心ではジョン・レノン・ミュージアムが開館。大宮で は Luna Sea のコンサートがあるらしく、チケット売ってください というプラカードを掲げたビジュアル系な人達が駅の構内に沢山い た。
最近までかなりのビール中毒で道を歩いているとふと生ビールが飲 みたくなって辛抱たまらず居酒屋に入ってしまうという感じだった のだが、夏の終わりとともにそのビール熱も冷めてきてウィスキー をよく飲むようになり、ただ近所のコンビニではあんまりちゃんと したウィスキーは買えないので通販でシーバス・リーガルを注文し たりしている。
山形浩生が 浅田彰のクラインの壷は間違っている というのをやっているのを読んで、ソーカル関連のページを読んだ りした。ソーカル自身が書いたやつの 翻訳 もあったりしてそれなりにテンションが高くなっている模様。最近、 東浩紀の本を読んで結構面白かったので、いろいろ考えるところも あるのを明日書くことにする。
自分の話を多くの人に伝えるための方法として非常に単純ではある が有効なのが騒ぎを起こすということで、これは自分が騒ぐのでも 周りが騒ぐのでもいいが、とにかくそういう形で人々にこれに付い ては何かを言っておく必要があるというようなことを思わせるよう な雰囲気を作り出すことであり、スキャンダルにはこういう騒ぎを 発生させる効果があって、ソーカルは社会学、および人文科学の分 野においての科学的概念の誤用、および乱用を指摘するにあたり、 このスキャンダルをおこすという形を取ることを選んだ。まず最初 に科学的概念の誤用をちりばめたパロディ論文を一見まじめな論文 のように見せかけてソーシャル・テキストという雑誌に投稿して、 これが掲載されるのと同時に実はその論文がパロディであることを 発表して少なくともその雑誌には科学的概念を科学的に検証する能 力がないことを明らかにした。その後でラカン、リオタール、セー ル、そしてドゥルーズとガタリといった現代思想の権威とみなされ る人達がその本や論文の中でおこなっている科学的概念の誤用、乱 用を指摘し、これはソーカル自身の意図がどうだろうと現代思想の 権威に関するスキャンダルとして流通した。このようにして集まっ た注目、および人々の饒舌を誘発する雰囲気のなかで、ソーカルの 主たる主張である、科学的な実証に基づく分析、研究の成果である 諸概念が、元となった科学的根拠から分離されて科学以外の分野で 誤用、乱用されることによって科学的な実証という手続きがないが しろにされることへの懸念の表明をおこなった。その後も自分に対 する批判を例えば自分の哲学に対する理解を疑うといった種類の中 傷であるとか、または自分の主張に対する無理解であるなどとして その指摘を続け、スキャンダルによって作られたその場の雰囲気を 維持しつつ、人々の注目を自分の主張の核心に導くように努力して いる。
ソーカルの本の書評を書き、その仕事の延長として浅田彰の「構造 と力」でのクラインの壷のモデルを間違っているとして批判を行う 山形浩生も、ソーカルが使用したスキャンダルの形を取った批判、 つまり誤りを暴き立てるという外観を継承している。これは linux の開発の方法の縮小した形態を用いて fetchmail の開発を行い、 その方法を理論化したというエリック・レイモンドの「伽藍とバザー ル」というポーの「構成の原理」とほぼ同様の仕組みを持った理論 化の物語、あるいは実践的ほら話の翻訳者である山形浩生らしい仕 事で、エリック・レイモンドが彼がバザール式と名づけた linuxの 開発方法を自らの縮小された実践とともに理論化したように、山形 浩生もソーカルの方法を縮小され、局地化された場所での実践によっ て理論化しようとしているのかも知れない。あるいは少なくともソー カルの方法の実効性を確信したうえで、浅田彰のクラインの壷の誤 りを指摘する。
浅田彰のクラインの壷はある自立的なシステム、循環し、自己生成 するシステムとして提示され、この循環の運動はクラインの壷の穴 の部分が縫いあわせることによって成立するもので、この縫合作用 が浅田彰のクラインの壷の自立性を支える循環の運動となっている。 これに対して山形浩生は、この穴の部分を繋ぎあわせることはクラ インの壷に底を与えることであり、そもそもクラインの壷には穴と か底とかがない以上、浅田彰のクラインの壷は間違っているという 主張を行う。つまりクラインの壷を勝手に借用し、縫合作用によっ て循環する自己生成のシステムなどというものに改変するのは、ク ラインの壷の本質から逸脱したものであり、本質への論理的な通路 が絶たれている浅田彰のクラインの壷は概念の論理的な展開として 誤りであるという主張で、この主張はソーカルの科学的な実証から 切り離された科学的概念の乱用の批判を継承したものと言える。
東浩紀は「存在論的、郵便的」の中で、この浅田彰のクラインの壷 のシステムを持ち出し、これも浅田彰から継承した否定神学システ ムに対する批判としてクラインの壷の批判を行う。浅田彰のクライ ンの壷の自立的な循環運動を規定するものは否定であり、この否定 が外部からクラインの壷の構造を支える。山形浩生のクラインの壷 には底などというものはないという批判はこの否定神学システムの 批判と並置されることによってその効果が明らかになるのであって、 境界のない外部と内部の連続性を現しているのに過ぎないクライン の壷がそれ自体で自立的な循環を始めるのに必要な根拠として浅田 彰のクラインの壷は底を持っていて、このクラインの壷の底を浅田 彰、および東浩紀はこのシステムの循環する自己生成の運動の根拠 である否定としてとらえ、この全体のシステムを否定神学システム として批判する。この批判はクラインの壷には底などというものが ない、つまりクラインの壷には外部と内部などというものは最初か らないのであって、そこに外部と内部の境界線としての底を設定す ることなど全く意味をなさないと考えれば、この否定神学システム としてのクラインの壷の批判、および分析は勝手に作り出したクラ インの壷の底という無根拠なものに対する批判に過ぎず、自己生成 的な循環するシステムであるクラインの壷が誤りであるので、その システムに対する批判である否定神学システム批判も誤りであると 言える。つまり浅田彰のクラインの壷は誤りであり、そのクライン の壷のシステムを前提にしている以上、否定神学システム批判も誤 りであるというような三段論法が成立する。
クラインの壷を循環する自己生成のシステムとして規定するために その循環の生成であるものとしての縫合作用、つまり底の生成が要 請されたのであり、この飛躍、あるいは短絡は自己生成するシステ ムを成立させるのに外部からの支えを必要としたことを示していて、 本来のクラインの壷がそれを支えるのに必要としてた外部の根拠は 数学の方法であり、しかしこれをクラインの壷の根拠とした場合、 そこには自己生成するシステムは成立し得ない。そこで浅田彰はそ のような数学の方法という外部性自体の否定によって自らを支える システムとしてクラインの壷を作り出した。そこでは数学的根拠と いう外部性の否定がクラインの壷に底を生成し、その内部を循環す る運動となる。ここで否定神学システム批判をもう一度持ち出して もいいので、数学的な方法論という根拠の否定それ自体を根拠とし て持つシステムなどというのは山形浩生が指摘するように単なる誤 りでしかない。これは浅田彰のクラインの壷が二重に誤っていると いうことであり、それは本来のクラインの壷にはない底の生成によ る循環運動を付け加えたことと、その底の生成が外部による規定の 否定そのもでしかないことである。
山形浩生の批判はこの二つの誤りを区別することによって成立して いて、クラインの壷に対してその数学的な意味から逸脱した底の生 成という部分にのみ向かい、あるいは少なくともその外部の規定の 否定によって成り立つシステムというのの実在性への疑惑はほのめ かされるだけに止まっている。しかし実質的にはソーカル、および 山形浩生の議論はこの外部の規定の否定によって成り立つシステム というものの実在に対する疑惑を提示していると考えられて、これ は彼らがこの種の議論を数学的、あるいは科学的な方法という限定 され外部的にその根拠が保証される領域の内部に引き戻すことを意 図しているからであり、その根拠の外部性、あるいは超越性の否定 というような種類の議論に安易な形で飛躍することを引き止めるの がそこでの主要な目的であるので、そのような安易な否定神学シス テムの設定を拒否する方向にその議論は向かう。
このような主張を外部的に根拠の保証される領域への単純な後退と して見るべきではなくて、あるいはその単純な根拠によって支えら れているのと同時にその根拠を失効させる不断の循環としての近代 の生成をそこに見ることが出来る。山形浩生は浅田彰のクラインの 壷は近代のシステムを説明するものであることを強調していて、そ こから先に、つまり近代の次に来るものというのを浅田彰が明確に 提示できているとは考えていないのであり、このような疑いは浅田 彰の提示する近代のモデル、つまり底を生成するクラインの壷とい うものに対する誤りの指摘という形によって示され、そこで近代の システムを正しく提示することが出来てない以上、そこから先の時 代をなすシステムの生成を提示することも出来ないということであ る。ソーカル、およびそれを継承した山形浩生の主張は明確な形で 保証された根拠に基づく内部の生成という科学的な方法の成果の単 なる誤用、および乱用であるような近代のモデルの提示は意味をな さないということであり、根拠性を持つモデルは近代の、そして近 代批判の方法として決してないがしろにされるべきものではないと いうことである。
このような根拠性を前提とした領域の生成は近代の方法であると同 時に近代批判の方法でもある。そして根拠性の否定も近代の方法で あり、また近代批判の方法でもある。そもそも批判というもの自体 が近代の方法であり、このような循環をモデル化するために浅田彰 は底を生成するクラインの壷を提示したのであって、そしてそのモ デル自体がクラインの壷という数学的な根拠、つまり外部の根拠に 依存しているモデルであることによってその根拠からの逸脱として の否定が可能になるのと同時に、山形浩生の批判のような形で逸脱 の不可能を示されもする。そして結局のところ近代というのは浅田 彰のクラインの壷であるかも知れないという気がしてくるので、そ れはつまり根拠の外部性に対する誤った実践、そしてその実践を規 定する根拠の外部性、およびその否定というのが近代のシステムで はないのだろうか。科学的な実証性、そしてその否定からの逸脱と しての実践の生成する循環が近代をなしているのであって、これに 対して古典主義、そして啓蒙主義の単純な外部と内部の体系を思い 出させるという意味でソーカル、そして山形浩生の主張をとらえれ ば、それは近代をモデル化するのに足るものではないので、それは 近代のシステムを生成する諸々の要素の一つである。科学的な実証 を重視することによって近代のモデル化への道が開けるわけではな くて、ここでの実証性の重視というのは実証的でないモデル化など というものは誤りを含まない訳がないので、もしモデルを持ち出す なら実証的な検証が可能な分野、つまり科学の領域を逸脱するべき ではないということである。
科学的な方法というのはある特定の領域を設定し、その領域から逸 脱しないことによって保証される安全性を特徴とするので、例えば 人間が効率よく仕事をするには余計なことを考えないでいるほうが いいという誰にでも理解できる理由によってこの方法があげた目覚 しい成果については特に説明する必要などないはずである。この領 域の設定というのは領域の外側に対する断念であり、物自体をその 物を示す数値によって置き換えること、つまり物質として扱うこと によって物自体の認識不可能性から人間の思考を開放する。つまり 科学的な方法というのは物の数値化、あるいは論理化としての物質 化であり、それを可能にする領域の構築である。そしてその方法に よる成果である知識は自分自身で設定した領域の他には根拠を必要 としないので、そのままの形で他人に引き渡すことが可能であり、 これは知識自体をものとして扱うことが出来ることを意味する。例 えば自分が幸福になるための方法というものを誰かが考えたとして も、その方法を使えば他の誰でも幸福になれるということがないの は明らかであるのに対して、水を酸素と水素に分解する方法という ようなものならその方法を使って誰でも同じように水から酸素と水 素を得ることが出来ので、これはこの方法が扱う領域においての水 とか酸素とか水素とかいったものが何であるかの明確な定義をこの 方法の要素として人に引き渡すことが出来るからであり、そしてこ のような前提の設定自体がこの方法の一部である。
しかし科学的な方法も方法である以上人間の実践をともない、人間 の実践の領域はある決まった範囲に限定出来るものではないので、 その方法は自分が設定した領域を自分自身で逸脱する。科学におけ る特定の方法というのは科学的な方法を土台として成立し、流通す るものであるが、その土台としての方法自体はその方法が設定した 領域、つまり数値化された物質としての物よりも多くの要素によっ て成り立っていて、この余剰が科学的方法の自分自身からの逸脱を うながす。つまり科学的な方法は知識をそのもとの形のまま、誰に でも再現可能なものとして人に引き渡すことが出来るものである時 に、流通という人間の実践の場はその方法に物質性に依存しない余 剰の部分を見出して、そこで生成された余剰によって方法は単なる 物質であることを止めてその方法自体として自分の物質性を裏切り 始める。ソーカルや山形浩生の批判はこの物質性からの飛躍として の誤りが安易に、何の危機感もなく行われてしまうことに対して物 質の根拠性へと繋ぎ戻す働きを持つものとして見ることが出来て、 そしてここでソーカルが自分は左翼であるということを言明するこ との意味も明らかになる。
マルクスの労働価値説は労働を賃金という形で数値化してその賃金 と労働生産物自体の価値との間に生まれる余剰の搾取としての資本 に対する批判として提示される。左翼であるソーカルは物質として の科学的な知識がその余剰において蓄積される場所として人文科学 における科学的な概念の誤用、乱用をとらえ、ここにマルクスにお ける労働の疎外に対応した形で、物の物質性に対する疎外を見たの かも知れない。あるいはマルクスのヒューマニズムに対応した形で 物を物質として扱う人間の営みの軽視を見過ごすことの出来るもの ではないと考えたのかも知れない。そして科学的な概念の誤用、乱 用という意味をなさない行為に対して科学の実証性へと通路を開く ことによってその行為が科学的な実証性と相互に変換される契機を 作ったので、ここに意味の通じる言葉がやり取りされる空間、余剰 の搾取としての誤用や乱用ではなくて、例えば誤配可能性としての 郵便という東浩紀が示したような空間が生成される余地が開ける。
駐車違反で身代わりで出頭というのはどっかで聞いたことあるなあ。 書類送検されるらしいね。どうだね岡くん。
XEmacs でも Mule-UCS が動くようになたらしい。ucs-conv は UTF-2000 に向けての実験だったようで、特にメンテナンスはされ ていないので、これで色々出来るようになるとは思うが、Mule-UCS のコンセプトについても特に解っている訳ではないのでどういう方 向で使えばいいのか、もう少し見てみる必要がある。
大宮の WAVE に行ったらシンバルズがライブをやっていた。おしゃ れな感じだった。
Think Pad X20 というやつを買おうと思っているのだが、品切れで 全然手に入りゃしない。ぜひとも何とかしやがれ。
うちのパソコンはケーブルテレビの常時接続なので一応外からも見 えるのだが、DHCP で割り振られるアドレスとかそれについている ドメイン名とかだと簡単に覚えられるようなものではないのでさくっ と使えるようにするにはどうしたらいいだろうかと思っていたとこ ろ、ダイナミック DNS で好きな名前を登録して使えるサービスが あるのを見つけて、例えば、 http://suiyokai.yi.org/ とか http://yonoryou.yi.org/ とかいう名前でうちの自宅のパソコンに繋がるようになった。つい でに apache のヴァーチャル・ホストの設定をしたので、名前によっ て違う内容が出る。でも今のところ内容は何もないので、とりあえ ず、 tomcat なサーブレット でもお試しあれ。
cygwin 関連の日本語の情報
http://www.jaist.ac.jp/~fujieda/cygwin/
http://matsu-www.is.titech.ac.jp/~sohda/cygwin/
http://www2.raidway.ne.jp/%7Eyzone/cygwin.html
http://www10.u-page.so-net.ne.jp/fa2/riue-s/index_ja.html
岡くんのところに毛蟹が届いたらしいので食べに行ったのだが、どっ ちかというと焼き肉の方が食べたかったので、先に焼き肉屋にいっ てお腹いっぱいになってしまって、毛蟹を食べる頃には酔いも回り、 殻を剥こうとするととげが刺さるのを、そんなちょこざいなとげと げを生やしていたところで結局は食われていては報われないねえと 哀れむので対抗し、黙々と殻から取り出し身を口に運ぶ。そのうち にすっかり夜もふけ、あるいは明け方というような時間に差し掛かっ ているにも関わらず、酒を飲み続けていよいよ一人で悦に行って喋っ ているうちに明日の会社に行くのが心配になったので眠りにつく。
調べたところ、こんなのがあった。
http://www.xemacs.org/list-archives/xemacs-nt/200006/msg00004.html
どうもかなりトリッキーなことをしないといけないらしい。そこで、 Windows でも動作し、モジュール使いまくりのものであるところの apache はどうなっているのだろうと思って調べてみたところ、そ もそも本体自体が ApacheCore.dll としてコンパイルされるという ように根本からモジュール化されているので、あまりお手軽に参考 に出来るものではなさそう。
Emacs で文字のコードを変換するための仕組みとして CCL という のがあって、これは C でハードコードする代わりにポータブルな 形で使えるので便利なのだが、以前に Windows のマルチバイト形 式、つまりコードページというやつに Emacs の内部表現から変換 するのをのをこの CCL でやろうとしてあまりにも普通につかうプ ログラム言語とは違うので訳が解らずに挫折して、結局ハードコー ドによって対応していたのが、最近もう一回挑戦してみようとして、 とりあえず専用の演算子が CCL にある Shift JIS とか 0x80 分だ けずらせばいい GB と KSC はなんとかなったのだが、BIG5 がどう にもならん。X のフォントも CCL でエンコードしているのだがそ のエンコードのままでは動かないし、その CCL と C で BIG5 をエ ンコードしているのを眺めても、どこが違うのかいまいちよく解ら ない。
と思って困っていたら、redisplay-msw.c の中で CCL を呼び出す 前に、
char_converter.ic = 0; /* start at beginning each time */
とかやって、これのせいで CCL がちゃんと動かなくなっているこ とが判明し、これを削ったら X 用の BIG5 のエンコーダーで Windows でも普通に表示された。めでたしめでたし。あとは jisx0212 を codepage 936 の中の IBM 外字領域で同じ字があるや つにマッピングして表示できるようにしたい。
NHK で昔のドキュメンタリーを再放送するという「アーカイブ」と いう番組をやっているのを見ていたら、六十年代後半の水俣病とか イタイイタイ病の裁判や、四日市の港湾汚染の話といった、公害に 関するものをやっていて、これはその内容もさることながら、形式 の面でも非常に見るべきものがあった。
映画というのはあまり見ないが、マルグリット・デュラスが好きな のでデュラスの映画を見た時に、音声と映像が直接的には連動して いないという形式がとても新鮮で印象に残って、例えば登場人物が 画面に映っていてその人はただ黙ってそこにいるのにその人の喋っ ているのが音声として流れていたりする。さらには「インディア・ ソング」という映画を作って、その音声トラックをそのまま使って それに全く別の映像を被せた「人影のないカルカッタにおけるヴェ ネチア時代の彼女の名前」という映画を作るにいたる。デュラスは 「愛人」を映画化したジャン・ジャック・アノーに対して映画とい うのは言葉であるということを言って、アノーはそれを受け入れず にああいう映画を撮るが、デュラスの映画における音声と映像の切 断というのはデュラスのこのような言葉というものに対するユダヤ 的な意識をその要素として持っている。
NHK のドキュメンタリーも音声と映像が切断されているような形式 を随所で採用していて、イタイイタイ病に苦しむ農婦の写真を次々 に写しながらその農婦の裁判での証言のナレーションがその映像に かぶさる。ここで、この形式が前提としているのが言葉に対する信 仰であり、通じるものとしての言葉を中心に据えて、それに映像と 音声を絡み合わせる。そこには公害というような社会問題によって 社会というものを対象としてとらえることが可能になった言葉があ るので、そこには間違いなく社会というものが実在している。そし てその社会の実在に基づいて通じる言葉というのがあって、六十年 代というものを現在から見るときに、この社会の実在性というのが 目を引く。最近のテレビで、喋っている中で注目するところを字幕 で出して強調したりするのは社会を実在するものとしてとらえるこ とが出来なくてそこで通じる言葉などというのはない時に、その通 じないものとしての言葉のとる形を示しているのかも知れない。
マスターになるデータが間違っていたのでそれに関連する全部のデー タを修正する必要があって、それを明日やるから全部任せたと言わ れて、それ用のプログラムを一日かけて作ったのだが、人が使う業 務用のプログラムなんかを作るのに比べて自分が使うユーティリティ・ プログラムを作るというのは非常に楽しいので大変はかどる。
キーパーの人がオールバックだったり、フォワードの人がシャツの 襟を立てていたりするのは何か意味があるのか。
今までは VJE のお試し版を使っていて別に不満はなかったという か最近は日本語を入力するようなことは Windows でやっているの で、そんなに使う機会もなかったのだが、IIIMF とかなんとなく面 白そうなので試してみたくなったのと、ThinkPad X20 が売ってな いかと思ってパソコン屋さんに行ったのでそのついでで買ってみた。 それで解ったのは Mozilla が世間の評判ほど安定していないと思っ ていたのは実は VJE の IM サーバーと相性が悪いせいだというこ とで、ATOK のIM サーバーだとほとんど落ちなくなった。IIIMECF も試してみたが、キーバインドのカスタマイズが簡単に出来ると思っ たらそういうものではなくて、ソースを見た感じではキーバインド はサーバーが持っているように見える。IIIMF については全然解ら ないのでそのサーバーというのがどの段階のサーバーになのかも解 らないし、とにかく XIM のほうから設定するキーバインドが反映 されているようでもなくて、今のところXIM から入力したほうが使 いやすいような気がする。
日本語の入力は Canna も Wnn も SKK も使っていたことがあって、 T-Code も一時間で挫折はしたが使おうとしたことがあった。どれ も一長一短あって、Canna と Wnn は単語がうまく出てこないのが ストレスがたまるが、たまごのユーザーインターフェースが優れて いる感じがしたので、Wnn はとりあえず使えて、それでもやっぱり こまめに単語登録するとか辞書のメンテナンスをするとかいうのが 面倒で、そういう意味ではそういう機能とは関係のない SKK はい いかとも思ったがユーザーインターフェースがどうも性に合わなく て、さらに T-Code になると、子供の頃から漢字を覚えるのが苦手 で嫌でしょうがなかったものとしては T-Code が使えるようになる ことなどありえない気がしてきて、結局 VJE のお試し版を使って いた。多分 DOS - Windows 風のかな漢字変換システムが性にあっ ているのかも知れない。Windows では最初から付いている IME を 使っていてヴァージョンさえよく知らない。
他の人達はいっぱい残業しているのに僕だけいつも早く帰るのが何 かおかしいのじゃないかという雰囲気になってきて、最近、帰ろう とすると急に仕事を頼まれたり、これはきっかり今日中にやってく れとか言って沢山の仕事を渡されるのが増えてきた。一日に八時間 も働いていて、通勤をあわせると一日の半分は会社勤めをするのに 費やしているのにも関わらず、それでも人並みではないというのは 明らかに何かおかしいような気がする。仕事をするのの要領は悪く はないので、範囲が決まったことならそれなりに何とかなるのだが、 どうも会社といものの仕組み上、際限なく仕事が増えるようになっ ているような気がしてならない。人間がコンピューターを使ってい るのは、楽をするためならどのような労も厭わないという性質が人 間にはあるからで、つまり他の人達ももっと楽をするように努力を するべきだと思うが、そういうことをどういう風に説明したらいい のかが解らなくて、ひょとしたら楽をしようとは思っていないので はないかというふしも見受けられる。
Windows 対応の部分は自分が使っている範囲ではそれほど困ること はなくて毎日快適に使っているのだが、色々と知識が付いてくるう ちに内部の仕組みで不満な部分も出てくるので、一回整理しようと 思って作業を始める。
Windows では一つの言語で使用する文字集合と符号化方式の組み合 わせを Codepage という単位で持っていて、例えば日本語なら、 JISX0208 と JISX0201 に IBM とか NEC の拡張文字を加えた文字 集合の組み合わせを Shift JIS で符号化したもに Codepage 932と いう名前が付いているのを使っている。XEmacs の charset には 'registry というプロパティがあって、これは XLFD の CharSetRegistry フィールドにマッチする正規表現になっていてそ こでマッチしたフォントがその charset に対して使われる。今ま ではWindows の LOGFONT 構造体にある lfCharSet の値を XLFD の CharSetRegistry 風に変換したのを charset-registry の値にマッ チさせて判定していたのを、今回は、mswindows-charset-codepage というのを用意して、charset に対応する Codepage を登録できる 仕組みにしてそれをフォントの Codepage と比較するようにした。 これで結構すっきりした仕組みになったのではないだろうか。
Mule の内部表現から特定の Windows Codepage に対する変換は、 中国語、日本語、韓国語についてはそれほど難しくはなくて、それ ぞれの言語に対応する Codepage と Mule で定義されている文字集 合の間でそれなりに対応があるので変換の仕組みさえ用意すればす む。しかし ISO8859 系と Codepage 125x 系の関係はかなりはちゃ めちゃなので、素直には変換できない。ただ、こういう Single Byte の文字集合を主に使っている国の人にしてみれば、自分が使 う文字集合さえ使えればよいのなら別に Mule 機能はいらなくて、 単純にフォントの置き換えですむので、そういう事情を反映して XEmacs ではコンパイルする時に Mule 機能を外せばいいし、FSFの Emacs には unibyte というモードがある。そしてあるファイルが Shift JIS でエンコードされた日本語のファイルなのか、BIG5でエ ンコードされた中国語のファイルなのかというのは、ある程度自動 的に判別できるのに対して、あるファイルが Latin 1 で書かれた フランス語のファイルなのか Latin 2 で書かれたポーランド語の ファイルなのかを自動的に判別することは書いてある言葉の内容を 認識できない限り不可能で、こういうヨーロッパ系の文字コードを 扱うのは Mule では技術的にも、そういう文字コードを主に使うユー ザーに対する対応という面でも難しいものがあるように思う。
しかし HELLO ファイルを開いたときにロシア語とかポーランド語 とかが明らかに文字化けしているのはしゃくなので、FSF Emacs の codepage.el からコード表をかっぱらってきて、フォントのエンコー ダーだけでっち上げてみた。
電話で話をしているうちに久しぶりにチャットでもやってみようか ということになり、IRC をやってみる。liece を使ったのだが、こ のソフトには説明書がほとんどないので若干苦労しつつ、あるいは ウィスキーで酔っ払いつつ、チャットをする。
次は IME 関連のコードを整理する。IME 関連のコードは全部 input-method-msw.c というファイルにまとめて、変換 window を 出す位置とか、変換 window のフォントとかの設定が呼ばれる頻度 を下げるようにする。後は、初期化に失敗する場合がごくまれにあ るのと、変換中にマウスでカーソルを飛ばされたとき時に変換 window もそっちに持っていったり、変換 window が消えた後に再 描画がちゃんとされない場合があったりするのを何とかしないとい けない。
IME の設定でスペースは半角で入力するというのにしていると、ス ペースを入れたときにエラーになってしまうというのを発見する。 なんでだろう。