昔のアイドルの曲をユーロビート風にリミックスするというのが流 行っているらしいのを聞いてみようと思っておニャン子クラブのユー ロビートリミックスというのを買って聞いてみたら、ユーロビート と言っても子供の頃に聞いたカイリー・ミノーグみたいなやつとは 違って最近のはとても正気の沙汰とは思えないようなものになって いた。前に TV Bros で Wink の同種のリミックス版の紹介でこれ がシャブを生み出した国のグルーブだというようなことが書いてあっ たのは非常に当を得た説明だと思う。
対談というのは本になっても余り緊張感がないので好きではなくて、 この本も別に面白いところがあるとは思えなかった。東浩紀は批評 という分野、というか批評家の仕事が仲間内にだけ通じるものとし てしか行われていないことに不満をもっていて、他の分野との関係 を強化しようとするのだが、結局そのほかの分野にも批評の分野と 同様の閉塞を見出してしまって行き場を失うというようなことをやっ ているようにも見える。
松浦理英子の七年ぶりの小説は失業して昔からの友達の家に居候さ せてもらう代わりに小説を月に一つ書くという約束をした、その書 いている小説が順番に並んでいるという形式になっていて、その入 り組んだ仕組みも含めて話の内容というか核心の部分が一番直接的 に読み取れる書き方が非常にうまくいっているように見える。これ は小説というのが嘘の話をでっち上げるものである時に、その嘘の 話をするということをどれだけ上手に出来るのかにかかってくるの で、あるいは作者がどれだけそういうことに向いているのかという 問題になる。
例えばこんなところ。
フサエは野坂昭如ファンの高校生で、野坂の小説を読むばかりでな く歌のレコードまで買っていて、野坂の愛娘の名前が<麻央>だと 知ると「わたしも今日から麻央って名乗る」と言い出すほど熱を上 げていたのだが、高三になって同級生の岡部道義を好きになり気持 ちを打ち明けてふられると、眼を真赤にして「やっぱりわたしは野 坂さんだけにしとく」とわが身に言い聞かせるように呟き、薄暗く なった帰り道、「ジンジンジンジン血がジンジン」と『ヴァージン・ ブルース』を低い声で不気味に口ずさみながら歩くものだから、横 にいた家主とマサコは必死で笑いを噛み殺さなければならなかった。
こういうほら話の積み重ねがなす現実の形をした小説の世界があっ て、そういう形で示された現実は作者の意思の反映であり、その意 思の実現が読者を楽しませる。現実というのはこのように美しいも のであって、それがたとえ六畳のアパートに閉じこもって世界に対 するどうにもならない怒りを募らせている小説家になりそこなった 主人公のものであってでもである。
東浩紀はともかく、松浦理英子も新しい小説ではおたくというよう なことを書いていて、しかしこれは松浦理英子の小説の話ではない けど、おたくというのが何か新奇な生活の仕方を示すよりは非常に 退屈で柔軟性に欠ける規範として足枷になるような場面が多いよう な気がする。甘酸っぱい思い出としてだけ機能する、例えば学生運 動を懐かしむ全共闘世代というような感じがおたくという言葉にま とわり付いていて、これは孫引きなので、どういう文脈で出てくる 話なのかわからないが大塚英志がこういうことを書いている。
相応に齢をとった旧<おたく>としては、価値の崩壊を指摘するよ りは古い世代に課せられた責務として、おずおずとぼくたちも本当 は持ったことがない<倫理>を説くこともまた必要なのかもしれな い。
このろくでもない結論の寒さが示しているのはおたくというのは体 が付いていかなくなったらどうにもやっていけないものであること で、この体力と気力の限界を補うのに足る土台のなさが素朴な保守 化を導く。その隠居先が倫理を説くというようなことになっていて、 しかし倫理というようなことこそ体を使ってやるものであるので、 隠居の仕方としては明らかに間違っている。
コロッケとかいなり寿司などをいただき、お土産にじゃがいもをも らって帰ってきたので、家で炒めて食べてみようと思ってやってみ たら、ポテトチップスの出来そこないみたいなものが出来た。
ふと思い立って Windows Native の X を、クライアントだけでも 作ってみようと思って、コンパイルしてみたが、どうも Windows 95 のコマンドラインには対応してないみたいで、Imakefile とか をいろいろと書き換える必要があるみたい。
とりあえずどうにかコンパイルは出来て、xclock とかもちゃんと 動いたので、次はこのライブラリを使って Windows Native の XEmacs を X クライアントとしてコンパイルするというのに挑戦し てみる。
でもやっぱり X で動かしたいのが人情というものなので引き続き コンパイル。コンパイルは出来るけどリンクの時に大量にエラーが 出るのは主に lwlib の中で必要なのをリンクしていないからで Makefile をいじってどうにかリンクまで持っていく。それで、起 動もするようになったが、X のデバイスを初期化するところで落ち る。Xt の中のリソースファイルを読みにいくところがうまくいか ないみたいなので、多分ファイルを探すところに問題があるようだ。
XEmacs の README には X に興味があるのならおとなしく Cygwin でコンパイルしろと書いてあるし、X のコンパイルには時間がかか るしで、だんだんやる気がなくなってきた。
隣にいた人たちが寿司を頼んで一口食べた瞬間に無言になっていた にも関わらず加藤が特上寿司を頼みやがって、特上なので一応うに とかいくらとかが乗ってはいるが不味いものは不味くて、大体ご飯 がぼろぼろなのからして全くやる気が見られない。
家に Windows 2000 の CD が落ちていたのでインストールしてみる。 最初は Windows 95 からインストーラを起動してやってみたが、見 事に失敗して、次にインストール用のフロッピーを一生懸命作って いる途中でよく考えてみたら CD-ROM からブートすることに気が付 きブートするからには CD-ROM が認識できているものだと思ってい たらそうではなくてインストール中にドライバを読み込ませなけれ ばいけなくて、そんなこんなでどうにかこうにかインストールでき た。一回シャットダウンしてから起動するとうまくいくけど、リブー トだと途中で止まるという問題が発生しているが、実用上は問題な いので気にしないことにする。そういえばサービスパックというの はもう出ているのだろうか。
Windows 2000 を入れたノートパソコンを会社に持っていって、会 社の MSVC を勝手にインストールする。本当はヴァージョン 6 が いいんだけど、会社にはないのでヴァージョンは 5 で我慢する。 コンパイラくらい最初から OS に付いているべきだと思うんだが。
Windows 2000 には英語版、各国語版、それに多言語版というのが あるらしくて、多言語版というのにするとメニューとかメッセージ とかの表示を好きな言語で出来るということらしいが、各国語版、 例えば日本語版だと日本語でしか表示できないみたい。
東ヨーロッパやアジアの言語用のフォントや IME をインストール するにはコントロールパネルの地域のオプションから選ぶ。ただ、 最初からついている MS 明朝とかでも東ヨーロッパ系の文字は入っ ているらしい。
ロフトの向こう側のプロントを曲がった所にあるアーケードの通り に蕎麦屋があったのでそこに入ってみたら、そこの蕎麦は十割蕎麦 といって蕎麦粉が百パーセントのやつで、そういうのを食べたのは 初めてだったのだが非常にうまかった。あと神亀という確か蓮田で 作っている日本酒があったのを飲んだら、これもなかなかよかった。
Windows では gnuserv が動かないが、ファイルを渡すだけなら Winclient というのが使える。で、使ってみたところ日本語のファ イル名が文字化けすることが解って、XEmacs 本体の DDE メッセー ジを受け取るところで、ちゃんと文字コードの変換をしていないと いうことが発覚した。それを直して使えるようにはなったが、 Windows 95 だと Winclient の中で、日本語が壊れるみたいでうま くいかない。
赤縁の眼鏡をしてウクレレを弾きながら歌うつじあやのという人が いて、最近はこの人の CD ばっかり聞いている。全般的に僕が君に 恋をしてなんちゃらかんちゃらという曲ばっかりなのだが、その歌 詞を聞いていても、君と僕という二人の人間の間に何の区別がある のか解らないし、それこそ風景と人物の区別も余りはっきりしてい ない感じがする。そういう歌を聴いているうちに、その区別という のは現実にはなくて君が僕とは別のものであるのはただの便宜上そ うなっているだけであり、つじあやのの歌っているような世界のほ うが本当の世界に近いということではなくても、少なくともそうい う形が歌になっているのが確かであるためにそこにそういう世界が 存在することができる。
うちの部屋には出窓があってそこに本を積んでおいたら、窓が結露 していてそのせいで保坂和志の「生きる歓び」という本が河原に捨 ててあるエロ本のようにかびかびになっていた。
千駄木のアフリカ料理屋でフォークソングの夕べというよく意味の 解らない取り合わせのものを見に行く。そのままその店でだらだら しているうちに電車もなくなり三時くらいになって、西日暮里まで 移動しようとタクシーに乗っているところで、約一名が車内でポカ リスエットでうがいをした勢いでゲロを吐いてシートのカバーがと ても綺麗な色に染まったことにより運転手と一悶着ありながらもカ ラオケ屋に落ち着き、眠くなったので寝ているうちに朝になって家 に帰る。
帰ってきたのが朝なのにも関わらず会社に行かないといけなくて、 非常に眠いところをがんばって会社に行く。
景気を支えるために財政出動を続けるか、それとも財政の再建を優 先させるのかが一番の対立点になっていて、今のまま財政出動を続 けていても先が見えなくて取り返しが付かないことになるので、財 政の方向を転換した方がいいというのは確かで、ただその転換する 方向についてもそれほどはっきりと先が見えている訳ではないので、 前回の総選挙では今の与党が過半数を取る結果になっている。
これは結局世の中の雰囲気が今のままのやり方でもうちょっと続け ていくという方向に若干ではあっても傾いていて、財政を転換して いく方向には、そっちの方が有利であるような明確な保証がない限 りは行きたくないということであるように見える。世の中はそれな りに安定しているし、国の財政が今の状態では続かないということ を明確な前提とした場合、国の財政と同様に実質的には破綻してい る企業は存続の理由を欠くことになるので今のような安定は保証さ れなくなる。つまり国の財政について根本的な建て直しが必要であ るというようなことを認める雰囲気は今の世の中にはなくて、この 安定を求める世の中の雰囲気が自民党の主流派を支えているので、 これを前にして内閣の支持率の圧倒的な低さは実質的な効果を持た ない。
この安定というのを重視する雰囲気が閉塞感をもたらしているのは 政治だけのことでも日本だけのことでもなくて、Amazon という本 屋の社長は金儲けの話しかしなくて、それが本を作っている人の間 に面白い本を作ろうということよりも何とかして食いつないでいく にはどうしたらいいのかということを重視するような雰囲気をもた らすし、IT 産業の振興というようなのも、そういう技術が生活を 豊かにするということよりはそれを商売にしてどうやって食い扶持 を維持するのかという話になる。非常に貧乏くさくなっているので、 そういうどんどん貧相になっていく世の中というのが今回の加藤紘 一の引っ込み方に現れているように見える。