年が明けて初めて家の外に出たら実家で飼っている犬が死んでた。 ころっと。
うずらさんの家に遊びに行き明け方のかなり煮えきってきたころに、 一人で21世紀はカントの時代だとか、これからはムージルだとかい うようなことを力説していたような気がする。
引き続きうずらさんの家でテレビを見たり漫画を読んだり岡くんと うずらさんがピアノとギターで何か訳の解らないことをやっている のを眺めたりして過ごす。
早くも正月休は終わって会社に出勤する。年末に発生したトラブル の対応などをする。
岡くんがライブに出るというので荻窪に行く。毎月何人かが集まっ てこぢんまりとやっているような集まりみたいで、去年に二、三回 見に行ったが全般的に雰囲気が暗いのであんまり好きじゃなくて、 それでも久しぶりなので行ってみた。それで店の中にどこかで見た ことのある人がいたので「どっかで会ったことありましたっけ」と 聞いてみたところ、「さあ、吉祥寺のライブハウスでよくやってる んでけどそれを見たんじゃないですか」と言われたものの心当たり はなくて続いて「それだったら、早稲田大学で、」っていうところ で紅茶に浸したプチットマドレーヌを口に運んだときに水中花が水 の中で花を開くように記憶がよみがえってきて、大学の一年生の時 にちょっとだけ入っていたサークルの先輩だった。多分十年ぶりく らいの再会。
新年早々休日出勤で会社に行く。ただし、昨日は朝まで飲んでいた ので半分くらいは居眠りをしていた。
川口の書泉に行って本を買い、そごうの中にライオンがあったので そこでビールを飲みながらその買った本を読んでいるうちに外には 雪が降り出す。
外に出たら豪快に雪が積もっているので、部屋にこもってこたつで 丸くなる。いや、うちにこたつはないけど。
ふとテレビを見ていたら、というか一日中テレビを見ていて夜半過 ぎにそろそろ眠ろうかと思っていたところ、イッセー尾形と永作博 美がコントみたいなのをやっている「くらげが眠るまで」というの をやっていて、非常に面白かったので調べてみたろころ「やっぱり 猫がすき」とかと同じ人の脚本らしい。それで、それを調べている ときに 乙女塾メンバーの情報ページ というのを見つけて一瞬体温が上がるが、内容を見ていくと次第に 寂しさが募ってくる。
クラッカーとかそういうことよりも、一升瓶からラッパ飲みでどう せ安酒に決まっている酒を飲んでるのがいけないんじゃないだろう か。おいしい酒を飲んでればあんな悪い子には育ちません。ところ で、讃岐うどんは うまいらしい ので一度食べに行こう。
というか普通に会社に行って仕事して帰ってきただけだが。
というか普通の時間に帰ってきたが。
この前会った大学のサークルの先輩であるところの岡さやかさん (以下岡(さ))といつもお馴染みの岡実くん(以下岡(み))が 飲みに行くだか何だかというような話になったらしいので、それに ついて行く。とりえあえず待ち合わせの時間まで岡(み)くんと池 袋の居酒屋で酒を飲み、店の人が今日は生酒があるんですよ、是非 飲んでいって下さいと言っているのを、これから待ち合わせなので と言って断腸の思いで断り合流する。
岡(さ)さんと一緒にいたのは吉村実紀恵さん(以下特に必要はな いが吉村(み))という歌人の人で、岡(さ)さんと一緒に朗読の ライブをやったりするらしい。ピアノの演奏にあわせて短歌を詠む という感じで、多分絶叫したりするのとは違うと思う。
それで行ったのが早稲田にある喫茶店で客が持ってきた CD を順番 にかけるというイベントをやっているところで、それで岡(さ)さ んと、と岡(み)くんが持ってきた CD をかけるのを聞きながら雑 談をする。吉村(み)さんは立派な短歌の本を出していて、そうい えば岡(さ)さんも立派な CD を出したりしていて、とてもうらや ましい。
毎年恒例の年に一回だけやりにいくスノーボードの日で、朝の五時 に集合して車に乗せてもらって行く。スキー場は大雪で転ぶと積もっ た雪の中に埋まる。でも転んでも痛くないという意味ではよかった のかも知れない。
今年は泊りがけなので二日連続でスノーボードをやる。まだまだ降 り続く雪の中に埋まりながらなかなか上達はしないけど、がんばっ てすべる。
スノーボードの次の日なので大事を取ってあらかじめ会社の休みを とっておくという非常に小心者なことをしていたので、家で寝て過 ごす。いやし系はもう終わった。これからはもやし系の時代だ。ビ バ・もやしっ子。
というような感じの同じような題名の本が五、六冊くらい本屋に並 んでいて、心配しなくても誰もお前にそんなことは聞きはしないか ら黙って殺されとけとか思う。
「斜めから見る」というのを読む。主にラカンとヒッチコックの話 で、時々「このことがシェイクスピアがラカンを読んでいたことを 証明する」とかとぼけたことを書いている。こういう言い方は誰が 最初に始めたんだ、いったい。それでポストモダンの説明としてこ んなのがあった。
「ポストモダニズム」はこのプロセスのちょうど裏返しである。ポ ストモダニズムは、対象なしでもゲームはできること、つまり遊び は中心の不在によって始められることを明らかにするのではなく、 対象をじかに提示し、それ自身の取るに足らない恣意的な性格を目 に見えるようにするのである。同じ対象が、最初は猥褻な不良品と して、次いで崇高でカリスマ的な出現として機能する。その差異は、 厳密に構造的なものであり、対象の「実際的属性」にではなく、象 徴的秩序におけるその位置にのみ属している。
岡さやかさんと富山さんによる短歌の朗読とか大正琴とかも交えな がらのピアノと歌のライブを見に行く。ヴィオロンは普段はクラシッ クがかかっている中を静かに過ごす喫茶店で、ライブではマイクは 使わないという方針らしくて、手すりに手をついて歌を歌う様子は 昔のミュージカル映画のような感じがする。
ジジェクを読んでヒッチコックの映画が見たくなって、今までは 「サイコ」くらいしか見たことがなかったのでレンタル・ビデオ屋 に行きとりあえず題名の威勢がよさそうなので「バルカン超特急」 を借りてくる。「今はお茶の時間だ。食堂車にはイギリス人がいる はずだ。」という台詞には笑った。
レンタル・ビデオで「オール・アバウト・マイ・マザー」を見る。 全ての女は女優であるというのが主眼であるため、男の登場人物は 主人公の息子以外に殆ど出てこないが、それだと子供が生まれると いう設定が成立しないのでその代わりにちんこのある性転換者が出 てくる。いや、そんなことはどうでもよくて、出てくる人たちが当 たり前に不幸で、そして当たり前にそんな中を生きているというの が非常に感動的だった。
この前のスノーボードに行った帰りにお土産で買って来た銀鮭の味 噌漬をつまみに、通販で買った新亀の酒槽しぼりを飲む。なのでとっ とと帰ろうと思ったら職場で問題が発生して帰るのが遅れて非常に いらつく。
そんなこんなで酒を飲んでいると加藤くんの女子大生問題に話が及 び、僕にもそんないい話はないかねえというようなことを言ってい たら、田口さんが間違ってもこっちには来るんじゃないぞというよ うな態度になってせつなかった。
こういうところ で前の社長だとか副社長だとかの名前を使って書くというような地 味なネタを披露している人がいるのだが。
「内省と遡行」というのを読んでみる。一般に外部から規定されて いると思われているようなこと、例えば言語の構造といったものは 主体の内部にあるものであり、それを規定している超越論的な主体 というものを想定してその規定を外部化することではなくて、内部 にあるものとしてその規定に切れ目を入れることが外部へとつなが るというようなのがこの本の全般的な趣旨みたいで、それでここで 出てくる遠近法の話はとても面白い。人間の視点はそれが人間の視 点であるかぎり遠近法によって規定されざるを得ない。あるいはそ れは言いすぎであっても、遠近法によって眺めるのではなくて遠近 法自体を凝視するプルーストに見られるような執拗な視点というも のの成果をここから説明することが出来て、プルーストは人間の内 面を細分化していくことによって人間を解体したように見える。
フーコーがいうように、十八世紀における「分割」は文字どおり空 間的な排除・監禁として生じている。この「分割」において注目す べきことは、狂気または狂人がもはや、“聖なる次元”に属さない ということ、したがって「分割」は理性と狂気がすでに等質の空間 にあるがゆえに可能だったのだという点である。古典古代にも、中 世にも、理性と狂気の区別はある。しかし、それが空間的な「分割」 となるためには、均質な空間が前提として必要なのである。あるい はこういってもよい。狂人が異質な場所に隔離されるためには、狂 人がもやは“異質な次元”に属するのではなく、ただの“人間”で あることが認知されていなければならない。つまり、この「分割」 は、一つの遠近法にほかならないのである。
この前やっていたテレビのドキュメンタリー番組で高校の部活でジャ ズバンド部をやっている所に有名なピアニストの人が途中から見た のでどういう経緯なのかは解らないが教えに来てその指導を励みに してコンクールに出たり合宿をしたりしているうちに高校三年の短 い夏は過ぎ部活を後輩たちに引き継いで卒業し、そしてその高校生 だった子供たちがそれぞれに自分たちの道を歩き始める中を、ピア ニストの人は自分の原点に戻るためにニューヨークに活動の場を移 して次第に評価を得ていくというようなのをやっていた。
ジャズバンド部のメンバーはその後に音楽を続けるのではなくて保 母さんになったり、老人介護の仕事をしたりしていて、そんな職場 の周りの人は知らない自分の中の一面としてトランペットを吹ける ということがあって、それが高校生のころの記憶とともに河原を吹 き抜ける風になる。
竹本くんが会社を辞めるので送別会をやる。柿くんが結婚するとか 言ってるので、当然結婚式には勝手に乗り込み、一升瓶を持ち込ん で会場の端のほうで独自に宴会をやるらなければならないだろう。
日本酒がいっぱいある店で今日はとにかく日本酒を沢山飲んだ。
雪が降りつのる中を神田神保町の ブラッセルズ に行き、ひたすらビールを飲む。紫示さんが、柄谷行人は自分と同 じくらい凄いとか訳の解らないことを言っていた。
新曲の「ばらの花」を買う。またピコピコいわしてる。コーラスは スーパーカーのミキちゃんで、全般的にくっさい感じが漂うのが非 常にいい。
彼を選んだキメ手は、ギターもエフェクターも圧倒的にちょっと しか使わない所です。
あんまり関係ないが最近ナンバーガールが非常に好きで、椎名林檎 のやっているバンドの中で「発育ステータス」というのがあるのの ギターを田淵ひさ子さんがやっているらしいのでそれのビデオを買 おうと思ったがレコード屋に行ったら DVD しかなくて、それで DVD のプレイヤーが欲しくなった。誰か余っている人いないかな、 プレステ2でもいいぞ。
世界史、つまりヨーロッパによる歴史というものを、ヨーロッパ自 体の成り立ち、およびクレオールとか、あるいはイスラムとかそう いう周縁の部分のヨーロッパに対する関係などを題材にしてその現 状を分析するという話だが、ヨーロッパによる世界史という本流に 対して世界各地が支流として次第に合流し、もはや全ての支流が合 流したと言っていい状況となった現在、その川は一つの特定の方向 へ向かうような流れをなすものではなくなって海に流れ出たのであ り、ただ海の広がりとして我々の前にあるという比喩で説明される 世界史の終焉というのは多分意図的なんだとは思うが、いくらなん でも図式的に過ぎるのではないかと思う。
つまり世界史というのは決して実現しない理念としてあるのに過ぎ なくてそこに成立する架空の現実が我々を拘束するのであり、その 架空の現実をあたかも実在するもののように描くことによってその 形式を自壊させるというのがこの本の書き方の意図なのかもしれな い。あるいは西谷修の書き方についてははっきりそう言えるほど読 んでいるのではないので必ずしもそいう読み方は正しくないのかも しれないが、そういう読み方をせずにこの本を読むのは何か根拠の ない希望みたいなものを見るはめになるだけのような気がする。
またしても始まった malloc で確保した領域はプログラムが終了す る前に必ず free するべきかどうかについての論争だが、いずれに しても、malloc したメモリはプログラムが終了した後でも開放さ れないという思い込みというか迷信のようなものが広く流布してい るのは確かで例えば、
#include <stdio.h> #include <malloc.h> #define HELLO "Hello world." int main (void) { char *str = malloc (sizeof (HELLO)); strcpy (str, HELLO); printf ("%s\n", str); free (str); return 0; }
この場合の最後の free というのは全く何の意味もないにも関わら ずなぜか必須のもののように思われている。この原因は例えばこれ が main からの return の寸前ではなくてプログラムの実行の途中 で呼ばれる関数の中での処理だった場合、ここで free しないと二 度と出来なくなるし、こういう形でメモリを確保する関数が何回も 呼ばれてそれで free してなかったらそのうちメモリを食いつぶし てしまうのでその場合は free は必須であって、このfree の必要 性を説明するのになぜだかプログラムが終了しても free していな い領域は開放されないという迷信が発生したのではないだろうか。
つまりプロセスの内部の問題で済む話が OS のメモリリークという外部 の根拠に飛躍してしまっている。これはプロセスという単位を明確 に規定することに失敗した場合に起きる飛躍で、哲学で言えば、認 識ということにことを突き詰めているうちに超越論に達するような ものだろうか。まあ、間違いなくそういう問題ではないだろうが。