売女のせがれ

 明日になればそれはまた明日で、朝起きて味噌汁をすすりながら納豆が 糸を引くのを箸を振り回してかき混ぜ、その納豆をご飯の上に乗せてがつ がつと口の中に押し込んで、まだそれが口の中に残っているうちにもう一 度味噌汁をすすって一気に流し込むということもあるいはあるのかも知れ ない。つまり我々は一日を基準として生活を送り、日が変わるということ がただ同じようなことの繰り返しであるというのでは済まなくて、実際昨 日の日の出の時間と今日のは違っているが、しかしそういうこととはどう にかすると全く関係がないような状態になることもあって、目覚まし時計 は毎日同じ時間に鳴り始めてその音にたたき起こされて我々が陥るのを余 儀なくされる虫の居所の悪さというのも大体が昨日や一昨日のと似たり寄っ たりであり、自分がまだ眠りたいのにも関わらず、また起きたところでど うせ今日一日ろくなことがあるとも思えないのに出勤時間その他の都合で 起きざるを得ないことのばつの悪さというのも昨日の朝と変わるものでは ない。その上に二日酔いというのもあって、昨日の晩は達三と飲んでいて 気がついたら最終電車がなくなっていたので二人でタクシーで家まで来て、 それからどうしたかはよく覚えていないというか、タクシーに乗ったとこ ろまでは記憶の中にその残骸が認められるがそれ以降のことについては事 実を保証するものが何もなくて、要するに少なくとも今鳴っているのを止 めた目覚まし時計は自分のものであり、部屋の内装、家具の配置、そして カーテンの隙間から漏れる朝日に照らされて浮かび上がっている床の模様 にしても明らかに見覚えのあるもなので、少なくともそれくらいのことが あればそこが自分の部屋であるのを認めるのには十分である。しかし達三 と一緒にこの家まで来たかどうかについては疑いを挟む余地があって、部 屋の中を見回しても達三の姿はなかった。実をいうと三日前にも達三と飲 んでタクシーで帰って来たので、その時は確かに達三と一緒に家まで来た はずであり、そういうことは友達付き合いをしているうちに習慣になるも のであって、酒が入れば、そしてそれが相当にであれば自分一人で家に帰 るのが困難を究めるのは目に見えていて、電車の中でげろを吐くくらいな らまだいいが、道端で眠りでもしたら車にひかれてしまい、遮断機が閉まっ ている踏切に入って行って電車にはね飛ばされ、そうしているうち他の酔っ ぱらいと喧嘩になってそうなればナイフで刺されるとか拳銃で頭蓋骨を粉 砕される恐れもあって、警察沙汰にでもなればそれはつまり警察に指紋が 残るということでこれからの人生が台無しになるということも考えられ、 これではいくつ命があっても足りない。それに酒が入って来ると人恋しく なるもので話はいつまでも尽きず、その話もこれといって何を話をしてい る訳ではなくても普段なら考えもしないことを思いついたりして、そのう ちに話題はもう話題というほどのことでもなくなり、ただの思いつき、単 語の羅列、発想の無駄使い、話の展開の極端な単一化、散漫になると同時 に集中力を増す意識、何かを言葉にするということに対して躊躇すること がなくなり、自分の話に責任を持つということもなく、酒のおかげで恐ら く働きがよくなっていると思われる頭はいつまでも話し相手を求めるが、 しかしその話し相手もこちらの話を聞いているとは厳密には言えず、口か ら出まかせに過ぎない相槌を所々で挟んでいると思っているうちに眠って ることもある。つまりそういうことがよくあって、達三といつからそうい う間柄になったのかはもう覚えていないし、よく考えてみれば彼がどこの 誰なのかもよくは知らず、もしかするとこのまま二度と会うこともなくて、 そのうち風の便りに酔っぱらって電車にひかれて死んだというような話を 耳にすることもあるかも知れない。あるいは自分の意志で電車に飛び込ん だのであって、何か他人にとってはささいなことで、或いは本人にとって もどうでもいいようなことをきっかけに彼は自殺をして、しかし彼がどう いうふうにして死んだのかというようなことはどうでもいいので、少なく とも死んだということはそれまで生きていたからであって、生きていると いう程のことをしていたものが自殺をするくらいのことを大げさに考える とも思えない。それでも達三がこういう話をしてくれたことをよく覚えて いる。

 その日、達三が事務所に着いたのは昼を過ぎてからで特に仕事と言うほ どのものはなかったので事務に雇っている若林さんという女の子が窓際の ソファーに寝転んで漫画を読んでいるのに声を掛けて軽く世間話をした後 そのまま外に出た。達三はマンションの一室を事務所として借りていて、 隣の部屋もなにかの事務所が入っているらしくて表札には何だかよく意味 の解らないカタカナの名前が掲げてあるのだが、その前に小汚い身なりを した若い男がおどおどした様子でいて、どうやら中に入りたいらしいのだ がそこが本当に自分の入っていい場所なのかどうか解らず、気が小さいた めにドアをノックするとかチャイムを鳴らすとかいうのを出来ないのか、 あるいはそういう中に入るにはどうしたらいいのかまったく見当もつかず に途方に暮れてため息をついたり、貧乏揺すりをしたり天井を見上げてい たりしているので、達三が声を掛けるとその若い男は文字通りに飛び上っ て上ずった声を発したが、何を言っているのか達三には解らなかった。

 「私は隣の部屋のものですけど」達三は穏やかな声で話掛けて、「こち らにご用ですか」と言ったが、その若い男は人に声を掛けられたことによ る動揺からまだはっきりと言葉を発することが出来る状態に立ち戻っては いなくて要領を得なかったので、「この部屋っていうのは、いったい事務 所なんですかね、それとも何か店でも入っているんですかね」とその青年 に問い掛けるというよりも独り言のように呟いて、「私はもう何年も前か らこのマンションに事務所を構えていて、こちらのお隣さんがここに入っ たのがいつなのかはもう忘れてしまいましたがもう結構長くいるのは確か で実際気にはなっていて、しかし人が出入りするのを見たこともないし、 あなたが初めてなんですよ、こちらにご用の方を見かけるのは。しかしま だあなたが本当にこちらにご用の方かどうかは聞いていない。」と達三は その若い男の方に向き直って彼の目を見据えた。その時達三の事務所の入 り口のドアが開いて、若林さんが煙草をくわえながら出てきた所に、ちょ うど達三が若い男とにらみ合っている形になっているのを目撃されること になって三人とも動きが止まり、一瞬事態は緊迫しているようにも見えた が若林さんは別に気にするというふうもなかった。すると突然若い男は若 林さんの名前を大きな声で叫んで、それが余りにも突然のことであったた めに、達三はその若林さんの名前がいったい何を意味するのか理解するの に時間がかかった。そして「お前何やってんだ、このやろう。俺のことを なんだと思ってんだ。いつまでも大人しくしていると思ったら間違いだぞ、 俺はいつだって腹が立ってたんだ。解ってんのか、このやろう。てめえ、 この売女のせがれめ。何とか言ってみろ。」というようなことを若い男が 小さい声でぼそぼそと言い始めたのを、これは若林さんに向かって言って いると達三は思っても、しかし何のことなのか理解することもできず、そ の後も若い男が「売女のせがれ」と何度も何度も繰り返し呟いて、それが 次第に大きな声になっていくのをただぼんやりと他人事のように見ている 他なくて、その売女のせがれというのがマンションの廊下に反響して二重 にも三重にも達三の耳を覆い頭の中を売女のせがれでいっぱいにさせて、 売女のせがれを湛えた頭を支えきれなくなって達三は床に倒れ込み、若い 男がもう絶叫に近い声で売女のせがれを発しながら、倒れている達三を満 身の力を込めて蹴り上げ、踏みつけて掴み掛かり、殴り倒してはまた蹴り 上げた。達三は意識を失い、壁に頭を打ちつけたために血が流れだしてそ の血が床に広がった。若い男はいつまでも売女のせがれを叫び続けて、も う若林さんの姿は見えず、若い男の絶叫にも関わらずマンションの廊下は 静かで、ただ達三の血が床に流れ出しているのが音を立てているようにも 見えた。


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