そして午後の運動が始まる。運動場の前の方にはベテランの収容者がそれぞ れに個性を発揮した運動を見せて、中程ではスタッフが指示を出していてその 回りには比較的新しく入った者たちがぎこちなく固まっていて、そして後ろの 方では少人数ながら統制のとれた動きを見せる集団があって彼らは独自の運動 を行っている。この午後の運動こそがこの施設の実験性を示しているものなの だが収容者の多くはこの実験性を理解していないに違いない、と私には思われ た。
私はこの施設に入る前にいくつかの施設を経験している。それらの福祉目的 の施設ではその福祉目的ということにとらわれすぎているきらいがあり、また 制度そのものの老朽化の問題もあって、収容者による暴動が日常的に起きてい た。それでも収容者の間では運動が人間一般に果たす役割についての様々な意 見が交わされて、私にも福祉施設における運動と人生との関わりの問題で一つ の考えがあった。
人生について関係のある事柄というのはそれほど多くあるものではなく、こ の運動こそが人生を生きるに値するものにする可能性において福祉施設の存在 意義であり運動の形態がいかなるものであるかというのはもはや人生と同義で あった。
予備知識を持たずに運動に臨むということにおいてはこの実験性の高い福祉 施設の収容者は正しい姿勢を用意できているはずであるのに、と私は思う。し かしながら早くも見て取れる現象としてはやはり制度が形式となりその影響が 運動にも及んでいることで、福祉目的であることを忘れさせるほど革新的な運 営形態を持つこの施設であっても、その収容者たちが無意識のうちに望んでし まう日常生活の安定ということがあって、それが制度の形式化という問題を引 き起こしもすれば、またそれが暴動の契機ともなる。
しかしながら今のところは運動に参加するたびに感じることのできる新鮮な 衝動と乱暴な感情の高ぶりについての私の満足は十分であった。それでも他の 収容者の無邪気さということを感じずにはいられず、そのことがあって私は高 見から見おろすような心の働きを起こし、また、このままで終わりはしない し、いずれそれほど遠くない未来に私はこの福祉施設の中でそれなりの立場を 得るに違いない、と考えている。
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