これは例えばの話。

 例えば空が曇っていれば道端の植え込みの緑も周囲に対して映えるとい うことがなくて、それでもそれが緑でしかなければ周囲との曖昧な輪郭を 残すことになる。

 それが何なのかという話ではない。

 あきらめた気分になれるのが夜ではなくて朝ならば、そこから始まる一 日がある。そして溜息をつく。解決はしないし、理解するということもな い。

 何だってかまわないなら例えばの名前で京子でもいい。
 その京子というのがテーブルを挟んで向かいに座っていればそこが喫茶 店でもレストランでも話をすることになる。
 例えばの話をすることになる。

 例えば夜に眠れなくてそれが明日を考えてのことならば、その明日が今 日になった頃には眠くなる。つまり退屈するということがあって、今日と いうのはいつだって退屈なのだから無理にでも明日のことを考えて不安に なる。そして眠れない夜が明ければ起きているのが当たり前の昼になって 眠れないということが意味を失う。

 午後。
 冷房の効いた空気を感じている。テーブルの向こうには京子がいる。
 時間を潰すということが目的にならないなら、ここには目的はない。

 それで例えばの話が始まるのでも終わるのでもなくて、ただ話が続く。

 沈黙があれば時間が流れて話がとぎれる。京子はコップを見つめている。 そして口を開く。

 それが何なのかという話ではない。

 例えば扉が開いて誰かが入ってきても、いきなり人殺しをはじめるわけ ではない。

 本当に長い間ひどい目に会ってきた。その事を考えると気分が滅入って、 決して全て自分の責任であるわけではないと考えてみなければ気が狂う。 誰かのせいならばその誰かを殺してもかまわないくらいの目には会ってき た。

 それで例えばの話として京子が殺されるのかもしれない。

 疲労ということがあるならば、その原因は必ずしも運動ではなくて制止 していることが続けば疲れがたまる。そのうち明らかに異質なというより 些細な変質が京子の表情に認められるようになる。
 殺されるということにも色々な意味がある。

 例えば唇の端が歪んで、そこには普通では考えられないような形での筋 肉の働きが見て取れるのならば、確かな輪郭が唇とその周囲を隔てる。

 静寂に包まれるということがあるならば、それは聴覚の問題ではなくて、 筋肉の動き一つで静寂が周囲を包む。

 例えばそうするうちに午後の終わりが近づけば意志の集中がほどける。

 いつしか差し込む光とそれがなす影の具合が変われば、歪んだ唇の輪郭 はいたって曖昧なものとなって周囲にとけ込む。


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