残像


日が傾くのを待っていた。そして地平線に没んでいこうとする太陽が町 に残す明かりが、町にともり始める明かりよりもわずかに強いものであ るちょうどその時刻になると、日が傾くのを待っていた男が道に立って、 その奇妙に歪んだ外見が異様の印象を与えるのを果たして気にしている のかどうなのかは解らないが背を丸め、ゆっくりとではあるが不安定な 足取りで歩き始める。男の背中の描く曲線がゆっくりと歩く歩調に併せ て上下に揺れるうちに残像をもたらして、しばらく眺めていると男の存 在そのものが一種の残像であるような印象を与えるので、まだ太陽の残 した薄明かりが町を包んでいるその時刻には本来なら目に映らないもの さえも現実のものとして現れるような気がしてくる。そうした現実を生 きているのが男で、日が傾いた薄暗がりに紛れて現れたこの一塊の異物 は人の目を引かない訳にはいかないのと同時に見るものに残す印象は何 もなくて、以前に起こった交通事故がアスファルトに残した血痕のよう に、あるいはその事故で死んだ少年を弔うために道端に手向けられた花 のように、別に何を言う訳でもなく時間が流れるのに身を任せてゆっく りと歩いている。

男が何かを呟くのかも知れなくてもその言葉は誰の耳にも届かず、人 間が言葉を使うことを得て人間になったのならばその人間が全て消滅 するまで言葉は存在して響き続き、その人間が消滅する寸前まで響い ていたはずの言葉が誰の耳にも届かないまま時空をさまよって、初め て言葉を得た人間が空に向かって大地の渇きを癒すようにと命令した 言葉の響きに共鳴する。言葉に命令の形を取らせることに成功した人 間がその効果を無限のもののように感じて空に向かって絶叫したので あってそれは言葉の生命にとっての晩年にまで届き、普段なら存在し ないはずのものが現実の形を取っている男が道を歩くうちに聞いたの もその言葉なのに違いない。それで男が呟いた何ごとかは生命を得て、 上下に揺れる男の背中は人々の目に残像としていつまでも焼き付く。 地平線に没みかけた太陽の残していった薄明かりが男の背中が描く曲 線に周りの空気との境界を与えて、不自然に上下するその境界線はま るで大地の鼓動のようでもあり、また誕生の瞬間に上げた絶叫を産声 とする言葉という生命が晩年に至っても耳に残るその叫び声を忘れる ことが出来ないまま喚き、沈黙の中での残響であるその喚き声が耳鳴 りのように男の背中の揺れるのに同調する。

少年は忘れない。あるいは全てのものを断えず思い出し続けていると いう意味ではそれと同時にあらゆるものを忘れ続けているのであって、 自分がこの世界に残した最後の印であるところのアスファルトにこび り付いているもうすっかりひからびた血痕を少年は思い出し続けてい るそのことが太陽が沈みつつある地平線へと向かって少年の身体を延 長させる。そして少年の身体が残した最後の痕跡である血痕が、道を 歩いている男のほんのわずかな呟きであるとしてもその声を聞きつけ て、男の足を何度でも捕まえては自分の息を吐き掛ける。呼吸する血 痕の息使いの韻律に併せて男の足取りも変わり、奇妙に歪んだ曲線を 描く男の背中が血痕の呟く言葉に押韻して、そして地面には男の背中 が長い影を作り、もうこれが全てであってこれから開始されることは 一つもないという世界の終わりからやってきた光線がその影で休息を 取る。光線の行き着く先を知っていてそこへ案内するとでもいうよう に男は影を引き連れて道を歩く。地平線に没んでいく太陽の薄明かり に照らされる町を歩いていく男が世界の終わりからやってきた光線の ことを思い出しているのかも知れない。そしてこの地平線から地平線 までの世界の全体を包むようにして少年の身体が膨張して、ただそれ だけではなくてそのことを少年は思い出しているのが男の取る奇妙な 律動と同調する。

最初は絶叫であったものが誰にも聞こえないような呟きとして言葉の 命を繋いでいるのであれば、人間というものが地上から消滅するその 最後の瞬間まで言葉はその絶叫の残響として呟かれ続けるはずである。 そして人間がその最後の一人に至るまで死に絶え、言葉を話すものも 聞くものもいなくなるその最後の瞬間が訪れる時にそこで言葉の響き は反響するものを失って消え入り、もう誰の耳にも届かないものとし て行き先を失って辺りに漂う。そこには言葉の届く範囲という内側と その外側の区別もなくて、言葉が境界線にまで辿り着いて声を失い、 またその境界線の向こう側にあるのも言葉である。現実には存在しな い残像のようなものである男の奇妙に揺れる背中の曲線がそのことを 誰の耳にも入らず、誰にも理解されることのない呟きで語っている。 歩調に合わせて奇妙な律動で揺れる男の背中が人間と言葉とで出来て いる世界の行き止まりの向こう側から届く呟きを聞き取って、それは 言葉というものが消滅するその寸前の響きであり、あらゆる意味を喪 失して誰にも理解されることのないその呟きは果たして本当に発せら れたのかどうかも定かではなくて、また確かに発せられたのであると しても何もこの世界の風景を変えることもないために、あの少年がア スファルトに残した血痕だけがその声を聞く出来るのかも知れず、そ して誰にも聞こえない呟きだとしても、それは二度と戻ってくること のない場所からの言葉というものの全てを要約する試みである。その 呟きが原初の絶叫を思い出し、そのような呟きの命を賭けた試みがこ こにまで届く。

アスファルトに血痕を残して死んでいった少年の晩年に書いた手紙が 男の元に届いて、男は行かなければと思うのではなくてただ歩く。

もう没んでしまった太陽が残したわずかな明かりが町を浮かび上がら せていたのに変わって街灯とか店や家の明かりとかが存在感を持つよ うになる頃になると、男の姿はもう見えなくなって、そしてそれが誰 にも聞こえないような呟きであっても、それはどこにも届かずにさま よっているうちに全ての場所へと到着した。