デュラスと援助交際

 マルグリット・デュラスの「愛人」の主人公が金持ちの中国人青年と愛 人の間柄になることによって金銭面での見返りを得るのを、例えば援助交 際というようなものがお金が欲しいという欲望を性の代償として金銭を得 る事によって満たすのに対して、この小説の場合は金銭に対する欲望と性 に対するのが二種類の違うものではないのと同時に、この欲望が金銭とか 性とかに決して行き付いたりはしない種類のものであることに注意を向け てもいい。援助交際というのを持ち出したのはただ単にそういう連想を持っ てもおかしくないような題材をこの小説が扱っているからで、そういう注 目の向け方を許すのはこの小説が一般にフィクション、つまり小説という ものを我々が読む時に邪魔になる様々なその小説自体とは無関係の例えば 作者と小説の主人公というのを同じものとして扱っていいのかとというこ とからヌーボー・ロマンの作家が自伝的という触れ込みで本を書いている のとの繋がりというところまで、読む側、あるいはさらにその外側の勝手 な都合による濁った言葉の流れを全て引き受けて関係を持ち、その上でこ の本の全体を成す各々が単独で全体であるような部分として、我々が語る 言葉を統一する。つまり「愛人」の中から主人公と中国人青年の関係が援 助交際というのを連想させるという部分を取り出した我々がその援助交際 ということについて何かを語れば、それは既に「愛人」の全体であること になり、我々が見つけた言葉は女乞食の絶えず始動する歩行によってカル カッタへと運ばれる筈である。

 カルカッタにたどり着き、ガンジスの河岸でサヴァナケットの歌を歌う 女乞食についてインディア・ソングの中で、「おそらく、そこで彼女は自 分を見失うんです。生涯のはじめのころから、要するに彼女は、自分を見 失おうといつも心がけてきたんですよ」と語られている。この何処にたど り着くこともなくて、決して解決しない欲望の存在を確かめる必要があっ て、たとえば愛人の冒頭で語り手が自分の人生が早い時期から取り返しが 付かないものになってしまったことを述べ、現在の自分の破壊された顔と いうことを言い、そしてその顔の輪郭は保たれたままであり、また実質は 破壊されているとデュラスは語る。欲望というものには限度がなくて、欲 望につき動かされて人間の身体は再現なく膨張するのでインドシナから歩 き始めた女乞食はガンジスに辿り着き、道を辿るということをしないし、 過程を踏むこともない絶えず始まり続けるという変化によって身体は起源 を失い、身体ではないもの、殆んど人間の形をとどめないものへと姿を変 える。デュラスはそれを破壊された顔というあるいはどうとでも取れるか も知れない言葉を使って我々の目の前に示していて、それで援助交際をし ている人の顔というのはどういうことになるのか。

 実際にはどうであっても援助交際というのが売春とは別のものであるの は確かで、ここではその違いについては特に強調する必要はないのかも知 れないが、売春が商売というものの基礎を成す部分のみを持つ特殊な商売 であるのに対して、援助交際は恐らくその商売という部分を適当にごまか しながら男女交際という普段は口にしないような、それでも何となく魅力 を持っていてあたりさわりのない言葉を使って、要するに欲望をあやふや にしてしまうことによって解決するものである。あるいはそこでは解決す るということがなくて、それは男女交際をすることによって我々の欲望が 解決できるのかということを考えれば当り前の話である。何かが解決する のはそれを割り切るからであって、商売というのは割り切ることによって 成立し、それが素人には容易ではないので誰もが知らない人にお金をくれ るからといって笑顔を振りまくことが出来るわけではない。

 何か楽な方法でお金を稼ごうと思って、それで男女交際というようなこ とになると誰でも財布の紐が緩くなるということを思い出すこともあるの に違いない。必ずお金が入るという保証があるのではなくてもそのお金に 見合うだけのことをする責任もなくて、勿論やっているうちにもっと効率 よく稼ぐ方法が見付かるのかも知れなくてもそうなれば既に商売であって 効率を求めるのは何ごとも曖昧に誤魔化すという援助交際のやり方とは異 なる。男女交際というつまり自分のやりたいことで何とかして金が儲から ないかという話であって、普通のことをして金を儲けるのなら他にも方法 があり、商売の上での工夫とういのが入るのなら、後は自分のしているこ とが正当な売春ではないことに対する引け目を感じながらするいんちきな 商売に過ぎなくなる。金を稼ぐ方法が幾らでもあって、そうなれば誰でも 自分の好きなこととか身近にあるもので金を稼ぎたいと思うようになり、 例えばものを書くのが好きならその書いたものがお金にならないかと考え るだろうし、そうなれば知らない人に笑顔を振りまくのではなくても商売 が成立して、商売が成立すればその人がそれで生きていく仕事ということ で人は認める。ボードレールが自分がろくでなしでないことの証明を自分 の詩に求めたのが切実に思えるのは世間というものがあってこれがキリス ト教の世界であるので神というのを伴い、その世間がボードレールの詩か らそれを書いた人間を認めるということがあり得なくて、その限りで詩を 書くということが反逆の形を取るその詩を拠り所とした人間の言葉である からであって、我々の身近にある自分のやりたいことというものにそれだ けの切実を見ようと思うなら誤魔化しが生じるのを免れない。

 援助交際ということをして欲望をやり過ごしているうちに金が手に入り、 その金を何ということはないような目的にというのはただの買物に使う。 「愛人」の主人公が中国人の青年の金に対して欲望を持っていたのは確か で、しかしその金を得るということは目的ではないし、恐らく手段でもな い。そこで欲望がやり過ごされるということがあり得ないので、中国人の 青年が少女の愛を求めて流す涙が誤魔化されるということがなくて、その 泣いてしまう程の欲情の唯一可能な実現の仕方がそこにある。そしてこの 小説の主人公は母に語る。

 私は母に答えた、何よりやりたいのは、書くこと、それだけ、そのほか は何も。

 それで何かを得ようというのではなくて、それは、

 母は私の顔をじっと見て、こう言う、たぶん、おまえはそのうちなんと か抜けだすだろうね。昼も夜も、憑かれたようにそれしか考えていない。 何ごとかを手に入れなければいけないというのではなく、現状から外に出 なければいけないということだけを。

 ということであって、現状の改善、あるいは誤魔化しによって欲望を解 消するのではないので、ここには前提というものが人間がいて欲望がその 人間を動かしているということしかなく、現状というのはそれを向うに回 して対するものなのではない。外に出る、言い替えれば内側を覆い尽くす のであって、書くということには一つのやり方しかなく、言葉という動く ものの力で自分というものとそして自分以外のものを見失うことによって 世界へと膨張させるのである。


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