文学部の文学と文学科の文学

 大学の文学部には大抵は哲学科と史学科と文学科があって、これでは文 学を三種類に分けると哲学と歴史と文学になるということになるので、文 学は文学の一種であるという訳の解らない事態に陥る。つまりここでは二 種類の文学があることになる訳で、それは哲学と歴史と文学の三つを内包 している文学というものと、もう一つの方は哲学と歴史は含まない文学と いうことになり、最初のを文学部の文学で後のを文学科の文学と言うこと が出来る。ただ単に文学と言った場合この二つの内のどちらを指すのかと いうことを考えてみてもいい。哲学や歴史を文学の内の一種類と考えるこ とは希なのはクイズのジャンルで文学歴史のいくつかとかいうのがあるよ うに文学と歴史は別のものと考えられていることからも解り、哲学の方は クイズに余り出ないようであるが、とにかく普通に文学と言った時には哲 学や歴史とは違うものが思い浮かぶ。

 文学科の文学であって、それをさらに三分すれば詩と批評と小説という ことになるのだろうか。それならばその中の小説を三つに分けることも出 来るので、このように限りなく細分化していく内に最初に何の話をしてい たのか解らなくなる。文学部の文学と文学科の文学の並立が可能であるた めに、より深い階層にあるものにも文学の名称を用いることが認められ、 例えば小説の中の一種類のものが純文学と呼ばれている。これを指してた だ文学ということもあるので、ここで注意していいのは分割を目指すこの ような運動は後戻りをする余地がないということで、そのためより偏狭な ものへと文学の範囲を限定することを免れず、後ろを振り返って文学部の 文学の地点にまで思慮を及ぼすことが出来なくなる。

 分割することには限度がある。あるいはその限度が文学の限界と考えら れているような節もあり、その偏狭な先端部分で行き詰まっている人達に は作家という名前が付いている。作家というのは小説を書く人のことで、 その意味では小説の専門家である訳であるが、文学科の文学というのが分 野としての専門を示す言葉であると解釈すれば、その作家と呼ばれる人達 が文学をやっているとも言えないことはない。しかし文学が専門的な何か であっては不都合なので、余り明確にではなくてもそのことを感じとって いるのかどうなのか、いずれにしても政治とか社会とか、あるいは時代と か状況とかいうことを言って文学はそのことを考慮するべきだという話に なったりもする。そしてこれは結局小説の題材としてという程度のことに 帰着する。

 所でどうして小説なのか。少しさかのぼってみて、 ボードレールから象徴主義にいってそれがヴァレリーへ繋がり、そこには プルーストもいてそれをを経てサルトルの「嘔吐」とかカミュとか言って いる内にヌーヴォーロマンが来るという風に見れば、詩の話をしていたの がいつの間にか小説の話になっている。これにはボードレールへのポーの 詩論の影響ということから、その詩論に基づいてポー自身が小説を書いて いることを考えて見れば当然の帰着と言えなくもないのだが、ここで不思 議になるのは象徴主義の時代にはその詩についてのと同じ理屈で絵が書か れ、音楽が作られたのであり、それとヌーヴォーロマンというようなもの では違う事情が見られ、もしかすると映画の方にいくのかも知れないがヌー ヴォーロマン自体が映画の問題であるとは思えない。そして小説と映画の 関係はここで述べるべきことではない。

 いずれにしてもポーの詩論は詩だけの話で済むものではなかったから小 説も書けるので、それがいつの間にか小説だけの話になっていったのは色々 と事情がある。フランス語の場合で言えば、国語の変化に対応するような 文章の書き方を作り出すことが求められていてその作業をするのに小説が 適していたという理由も一つにはある。言文一致と同じ訳で、つまり国語 が安定していないという文学にとって状況が悪い場合に小説が重要な役割 を果たすのであるが、しかしこの小説は目的を達せば不要になる一つの手 段に過ぎず、そこで小説に与えられている役割が本来のものであるとはと うてい言えない。もちろんそれだけの理由で小説だけが文学ということに なったのではないし、本来の役割などというのも別に何でもいいので、そ こで得た成果が重要なものであるのは確かであるが、ここではその弊害に ついて言いたいことがある。国語の変化を担うというのは文学全体の役割 であるよりもその性質であるにも関らず、それを小説の問題へと狭めて考 える傾向が生じたのと同時に文学を小説と考えることによって文学自体を も歪めることになったのであり、その歪みが及ぶ範囲は国語の変化という ことだけに止まらなくて、生命ということにまで広がる。

 小説と映画は二つの別のものであり、詩も音楽も絵もそうであってそこ にある相互の連絡を見ることによってそれの魅力が解るのでは意味をなさ ず、その一つを取ってそれが既に生きてなければならない。これらの個別 のものは無関係に存在しているのではなくてもそれが生きていれば血が通っ ているはずで、その生きているということが重要である。血の源泉を尋ね るて血管を辿ればそれはどこへでも至り着く。あるいは至り着くのではな くて血液は無限に循環していてその血液も絶えず新しいものへと入れ替わっ ている。

 細分化された文学が毛細血管も同様の複雑をなし、そ の複雑がではなくてその複雑を理解しようとしない怠慢が血液の流れを塞 き止める。小説とか文学の問題とか称するものを読まされて我々が感じる のは血が通っていないために壊死した文学の残骸であって、それは血管の 細分化に血液の循環が追いついていないことを示している。文学の切れ端 を文学だと思い込んでそれが生きている必要を顧みないものの乱造する残 骸は腐敗臭をまき散らし、何かの間違いでそれが視界に入れば目を背けた くなる。

 末端であるから血が通わないのではない。人間の指先のことを考えて見 てもそれが分割されていない訳にはいかず、またもし極度の低温のなかに あれば指先を凍傷から守らなければならない。具体的な形を持っているな ら百足のようであることは避けたいと思うのが人情であるが、それが文学 というようなことになれば一概にそうとも言えないので、百通りの先端を 自由に扱うことも可能であるかも知れない。しかしその百通りの内の一つ しか自由にならないのであれば、つまりその百分の一を全てだと考えてい れば恐ろしく狭いその範囲でいったいなにをするというか。全体との連絡 を絶ち、血管をせき止め、そこに拘束されたものが腐敗して悪臭を放って いる。文学科の文学というので思いつくのはそういうことで、専門的であ ることが殻に閉じこもることの言い訳になる。

 言葉というのはあらゆる他の言葉へと繋がっていて我々をどこへでも運 んでいく。そのことを顧みようともせず、流れを塞き止め、そこから先へ 行けなくしているような末端があってそれが文学と呼ばれ、作家という人 達がその行き止まりで腐敗している。それなら文学というのはない方がい いので、文学部に文学科は必要ないのではないか。


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