何事にも限度があるというのは確かであって、たとえば限界に挑むとい う言い方も、限度を超えたことをするのであるよりは、限度を広げていく ような働きを指しているのだと思う。あるいは、限度を知るということも あって、知るためにはそこに近づく必要がある。そして書くということが あるのかもしれない。書くということは何かあらかじめあるものを言葉に するということではなくて、書くことによって現される一つの現実を知る ためのことだと言える。知るというのを認識という言葉に変えて言えば、 言葉として実体となったものによって自らの認識を確認することであって、 それでどこまでのことが出来るかという問題になれば、限度がそこにある。 自らの認識と言ってみて、その自ら、あるいは自分というのはどういうこ となのかが頭に浮かぶ。

 ある対象をだしにして自分を語るのが批評であるというのは、小林秀雄 は国語の教科書くらいでしか読んだことがないからどういうことなのか解 らないけれど、もし自分を語ることをするのならばそこに自分という対象 がなくてはいけない。自分だけは別であるということはないはずで、ここ でも対象の違いがどれほどのことかというのがある。そこに対象がある限 りそれが実体としての抵抗を持つわけで、限度から逃れることは出来ない。 そして自分を語るのは何も批評家だけのことではなくて、小説の人物が自 分を語ることもあるし、そこに小説家の考えが託されているという話もよ く聞く。それなら登場人物をだしにして自分を語るのが小説であるのでは なくて、とにかくここで書き手ということを持ち出すなら、文章が書き手 を語る、あるいは現すということはある。それを書き手が意識すれば、文 章にその意識が反映して言葉が響く。その響きが一人の書いている人間を 感じさせもする。そこではもう自分というのは言葉によって現された一つ の対象にしか過ぎず、限度の中にある。

 言葉は対象を持っていてその言葉で現せることには限度があるというの をもう一度思い出してみてもいい。言葉が響いて来たり、それを聞いて感 銘を受けるということがあるのは、そこで限度が広がって未知の領域に触 れるのを感じるからである。つまり書くというのは一種の開拓であり、表 現を得ることによって未知の対象が現れて来れば、そこで確かに何かが語 られたことが感じられて、こちらに向かって言葉が響く。


<目次>