ヘンリー・ミラー

 ヘンリー・ミラーが実際にどういう暮らしをしていたのかは「ヘンリー・ アンド・ジューン」というアナエス・ニンの日記の抜粋があるのでそれを 読めば解るのかも知れないが、「北回帰線」とか「南回帰線」とかに出て 来る話のそれぞれが実際にはどうだろうと少なくても読んでいる限りでは 愉快なものでしかないので、語り手がろくでもない人物達を次々に巻き込 んでいくのと同様に勢いよく垂れ流される言葉に読者は引き込まれる。

 西原理恵子の漫画で人が集まった時に何をするかというとギャンブル位 しか思いつかなくてまたとんでもない額が動くようなのをやるのと同じよ うなもので、何かするとなれば女を見付に行くことしかなくてそれで淋病 になるだの夫が戻ってくるだの年寄りを相手にしなければいけないだのと そういう話が延々と続くうちに、子宮とか宇宙とかいうことよりもそこで 起こっている出来事に目を見張らざるを得ないだけの文章の勢いがあるの で、それが我々を心から感動させるということでは必ずしもなくても、本 を読むのに熱中させるだけのものはあるので語られる出来事に心引かれて、 そこにはある種の感動がある。ニューヨーク、あるいはパリで「南回帰線」 や「北回帰線」の当時、こういう本の中に出てくるような人間がいてそう いう人間が生活をしていたことを疑いようのないものにするだけの描写が あるので、それが今の自分の暮らしよりも酷いものなので励みになるのと は違っても、親しみを持てる人間に近づくことが我々の気持を盛り上げる 効果があるのは確かであって、その親しみは近所に住んでいるとか、それ とも同じ街にいる人間、例えば駅前の商店街を歩いていると向こうから歩 いて来るような人間に感じるものと同じで、その限りではミラーの小説は 土地というか街に根づいた形で成立していて、街というのが独自のもので 我々がそこに愛着を持っていても人間が生きていくのにどうしても必要と いうわけではないものなので、街に根づいている人間がよそ者に対して大 抵は弱者であるのはそういう部分でなのかもしれない。そして我々は弱い ということとは別に関係なくて、生まれ育った街には愛着があり、その街 に根づいて暮らしている人達に親しみを覚え、酷い目に会いながらも愉快 に暮らす。


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