ヴォルテールの愛人だったシャトレ夫人という人は四十歳を過ぎてから ヴォルテールではない別の愛人との間に結んだ関係によって妊娠して、夫 人は数学者でもあってニュートンのフランス語への翻訳をしていたのだが、 その妊娠をきっかけにしてなぜだか自分の死が間近にあることを予感して、 もの凄い勢いでその仏訳を完成させる。一日に十七時間はその仕事をして いたそうである。その後に出産は無事にすんだのだが、しばらくして発熱 して呼吸が困難になり、発作に襲われて死ぬ。

 これは吉田健一の本で読んだことで、吉田健一の描く十八世紀のその時 代に生きていた人間というのはかなり魅力的なものがあって、このシャト レ夫人の死に方にも見られるように要するに理性の冴えとはちゃめちゃな 行動が目を惹く。人生というのがありのままに現れている感じがするので、 そこには人生を受け入れて生きて行動した人間がいる。別の話でこういう のがある。ヒュームが道を歩いていると溝にはまって抜けられなくなって いる所に、おばさんが一人通りかかって、そこで溝にはまっているのが無 神論者で有名なヒュームであることに気がつくと、このおばさんはキリス ト教徒だったのでただでは助ける気がしなくて、神に祈りなさいと言う。 ヒュームは神に祈って、おばさんに溝から助け上げてもらった。この話に も何か冴えたものがあって、体を動かすのに邪魔になるものが少なかった 時代であった気がして、つまり風通しがよくて堅苦しくないのである。

 吉田健一の生き方も堅苦しくないものだったはずで、出版社に借金をし て旅行に出掛けて旅先でずっと酒を飲んで過ごしたとか、ホテルのバーで バンドの人に自分の好きな曲をやってくれるように頼んで、酔っぱらって いるために法外なチップを握らせてしまうとかいう話も全くそこで体を動 かすのを邪魔するものがない感じがする。吉田健一は肺炎で死んだのだけ れど、その肺炎で入院しても医者の言うことを全然聞かなくてギネスを手 放さなかったそうである。

 という話でやっぱり横山やすしのことを考えてしまう。人間を二人や三 人並べて比べて見てもどうにもならないけれど、ここで扱っているのはそ の死に方ということで、人間は死ぬことによってより確実に人間になると いうこともある。我々が人間というようなことを考えるのにそれが今現在 生きている必要は何もないのであるよりも、まだ生きているということが そこに人間という一つの総称の元にあるものを見る余地を少なくするので、 生きているうちは不安定な状態に置かれる他ないために、そこに見えるの は総合であるよりも断片であらざるを得ない。

 それで横山やすしは死んだばかりでまだそういう断片しか見えてこない のかも知れなくても、テレビを見ているとそこに一人の人間がいることを 感じるのに十分なだけのものはあった。例えば名文が多くの場合に回想の 形を取るのには理由があって、思い出すということが我々に求める結果は ある総合されたものの本質的な部分への接近である。既に過去のことになっ ていてそのために現在という持続の状態の中へ組み込まれて生きているも のを見ることは分析による解体を許さないような確かで動かし難い総体を 示す。そして人間が生きているということはもちろん確かな持続ではある のだけれど、生きている人間は容易に断片となって分解するような不安定 な状態に置かれていることも確かなのであって、我々は必ず死ぬという確 かな保証を得ているから安心して生きていられる。

 話は横山やすしのことで、誰かが彼は生活の中でも漫才師の横山やすし を演じ続けた人だったと言っていたのが、本当は寂しがり屋だったとか繊 細だったとかいうことよりもそこに人間がいる感じをさせるのに足りた。 実際に人間は生きているうちは何かの役を演じ続けるものなので、例えば 女房役というような言葉があっても、家の中での女房というようなのは要 するに女房の役をしているのであって、生まれつきの女房などというのは ない。会社員は会社員の役を演じていているので、それが漫才師ならば彼 はそういう役を演じているのである。それと同時に自分は自分でしかない ということがある。その自分が自分でしかないことに掛けて我々がしてい るのが我々の生活であって、何かの役を演じるのが我々の仕事である。そ してその二つを厳密に区別して生きていくなどということは不可能である。

 ワイルドが自分の天才を注ぎ込んだのは仕事ではなくて生活であると言っ ているのは注目に値する。しかし生活というのは天才を発揮する場として 相応しいとは言い難くて、ただ自分が自分であることを何度でも思い出し 続ける繰り返しのものなのであって地味で目立たないものなのに過ぎず、 そこに天才を発揮するのならばそれが仕事になる。生活をするのが仕事に なるということで、これは自分が自分でなくなる危険に遊ぶことであり、 確かにワイルドが同性愛に関する裁判に固執したのは、断固として生活を 守るものの地味で目立たない態度であるよりも、仕事を成し遂げようとす るものの執拗さを感じさせる。

 一度得た名声を失って不幸な晩年を送ったということではワイルドと横 山やすしは通じるものがあるのかも知れないが、ここで重要なのは生活を 自分が自分である場所としてではなく、役を演じる仕事の場所として生活 を送ったということであり、これはワイルドが属していた近代という時代 の性質なのでもある。役というのは要するに社会の中での自分の位置のこ とであって、これは他のものとの位置関係の上になり立ち、そのために関 係が移動すれば自分の位置も変更を余儀なくされるので、それで名声を得 るとか失うとかいうことが起こる。それに対して自分が自分であるという ことは人間が人間であるということと同様に決して動かすことの出来ない ものであり、人間はその動かすことの出来ないものを起点にして進んでい くのだが、その起点を見失う程に先へ進んでいかざるを得なかったのが近 代という時代だったので、そこでは生活が仕事になる。

 立身出世というようなことはこのような近代が日本に及んだことを示し ているので、つまりこれは自分の生活が仕事の成果に取って代わられるこ とを示している。自分がある状態の生活をすることが達成するべき目的に なるので、そこにあるのは生活ではなくて仕事とその成果なのである。日 本一の漫才師というようなのも自分が自分であることを見失わない限り到 達し得ないものであり、そして自分が自分なのではなくて自分が横山やす しであるのならばそれはそうする他ない。

 シャトレ夫人はニュートンの仏訳によって名声を得ることを望む必要の ない地位を既に持っていてその仕事を始めた。そこにあるのは自分が自分 であることの動かし難い事実を前にしてそれを受け入れ、それを起点にし て仕事をしたものの優雅である。その十八世紀という時代の次に近代が来 て、そしてその近代は既に終わっている。それにも関わらず横山やすしが 近代の人間、あるいは近代に反発した人間という意味では世紀末の人間で あるのには理由があると考えられる。ワイルドが近代の人間であるのは彼 が近代を受け入れがたいものとしていたからなのである。

 文学の世界では近代は既に終わっていると考えられる正当な理由がある ので、現在は文学の仕事をしているものが自分の生活が目立って人目を惹 くものになるようなことを決して望まない。この目立たないということを 文学の衰退と考えるものがあることからも解るように近代が抱えていた問 題はいまだに残っているので、近代は終わったのでもその問題だけが残っ ていてそれが惰性であるだけに始末に負えないのと同時に無視することも 可能で、それで目立たずに生活をすることも出来る。しかしテレビという のがそれを許さないということがある。吉田健一は十八世紀について、世 間の口の形でものを言う余地のないという言い方をしていてその反対が近 代であるのなら、テレビをつければ遺族の方の心情を考えるととかファン の皆様が心配していると思いますがとかいうような要するに世間の口か、 あるいはそれを借りてその形でものを言う連中であふれていることは明ら かであって、そうやって近代の残滓が溢れているのがテレビの世界だと考 えることが出来る。

 そういう世界の中で自分の役を演じ続けるというのはそれが文字通りに 自分の役なのであれば困難きわまりないのは確かである。役というのが関 係の中でその位置を変えることは前に書いたが、上手く立ち回ろうと思え ばその関係を見極めて一番有利な役を演じるのが一番であって、頑なに自 分の役にこだわればそれでどうなるのか。それが横山やすしであって我々 は彼が死んでその人間を正視することが可能になった時にその人間に惹か れずにはいられない。ワイルドもボードレールもそうやって生きていた。


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