この小説のあらすじを説明する必要があるのかどうか解らないが、要するに この小説の語り手が仕事の打ち合わせに小田原まで来て、その約束の相手に会 いそこなって時間つぶしのためにサークルの先輩だった真紀さんという人に会 いに行ってそこで色々話をしたりするというのがこの小説のあらすじというこ とになる。

 それでこの小説の最後の方に真紀さんが読んでいる本ということで、『特性 のない男』、『ローマ帝国衰亡記』、『失われた時を求めて』の三つが出てく るのだけど、真紀さんがこれらの本を読んでいる理由というのは何のためでも なくて、本を前にしてそれを読むことをしてそれで何を求めるのでもないとい う態度はそこに一人の成熟した人間がいることを感じさせる。知識を求めて、 あるいは何かの刺激を求めて本を読むというのは、まだ未熟な人間のすること であって、この未熟な人間というのは時代とも関係がある。

 ムージル、ギボン、プルーストと名前を挙げて、とりあえずプルーストにつ いて言えば、『失われた時を求めて』というのは近代という時代にあって、近 代小説が完成を見た地点に現れたものと言えるのと同時にその地点はある時代 が到達した一つの地点を示している。その到達ということが近代においてはそ の時代自体を認識するという形を取ったのであり、嫉妬なら嫉妬を、あるいは 記憶なら記憶それ自体を徹底的に突き詰めて行くところにこの時代の性質が見 られるのは、つまり近代という時代の混乱の原因である一体感のなさがあっ て、それは個別のものが個別のまま突き詰められて行った結果、それぞれが一 つの世界をなし、ただそういう様々な世界があるだけで全体の統一を欠いてい る時に、プルーストはその様々な世界を断片の形のまま一篇の小説の世界とし て作り上げた。そのことによってこの時代の混乱が混乱として定着し、それを 土台とした安定が『失われた時を求めて』の根底を流れている。これは不安定 それ自体を土台として築き上げて安定を得たということで、この安定も第二次 世界大戦とともに崩れるのは、戦争においてはそれぞれに世界をなしていた多 様な価値観はただ生き残るということへと統一されて行ったからである。

 その戦争があってから既に充分な年月が過ぎている。物質、および精神の両 面での豊富が多様な価値観を生み出し、それぞれに独立した世界をなしている という近代の特徴が現代にも見られるようになってからも既に久しい。ここで 未熟な人間ということに戻れば、統一を欠いた時代において無理に統一を求め ることが未熟なのであって、世界は一つではないことが既に明らかであるのに 未だにそれを求めればその無理がたたってその人間は不安定な状態に置かれる 他ない。それと同時に一つの世界に固執する人間がいて、その世界が絶対のも のでないならば、そのために混乱が起こり、その混乱が時代の基調となる時 に、その時代に生きるものが未熟であることは免れ得ない。しかしその諸々の 世界が存在するという現実を正確に認識することが可能になれば、それを土台 としての安定があって、その安定を得た人間に既に未熟ということがないのと 同時にその人間の存在によって時代が未熟を脱したことを知ることが出来る。  話を「この人の閾」に戻すと、真紀さんにそのような安定を見ることが出来 る。あるいはこの小説の語り手が紋切り型の表現を嫌っているということが一 つの世界に固執することに対する反発である時に、既にこの小説が諸々の世界 というものを前提、あるいは土台として得ていることが解る。そしてその諸々 の世界を土台として生活を築いているのが真紀さんであるのは次のような記述 に現れている。

 真紀さんのいる場所はいまこの自分の家庭の中心ではなく、家庭の“構成 員”のそれぞれのタイム・スケジュールの隙間のようなところで、それでは “中心”はどこにあるかといえばたぶんそんなものはない。

 何かを中心とした生活というのは一見安定しているように見えてそうではな いのは例えば一本しか脚のないテーブルでは立つことが出来ないのと同じであ る。人間の生活が根を下ろしているのが一つの世界であるよりも、様々な世界 に根を下ろした人間の方が安定するのはよく考えて見れば当たり前のことで、 ここで根を下ろすという表現を使ったのはこの小説の中で草むしりをする真紀 さんがこういうことを言うからである。

 節ごとにどこからでも根をつける地面を這う芝のような草がたぶん自然の 中で一番強い形態なんじゃないかと言うのだった。

 例えば真紀さんがその子供だけを、あるいは夫だけを中心と見て生活をして いるわけではないことがその生活に強さを与え、またそれが安定につながって いる。一つの方向に注意が向かわない、あるいは一つの方向だけを目指さない ことからくる安定が真紀さんに成熟をもたらしているのとは反対にその夫は仕 事をその生活の中心と見ていて、出世だとかそういう目指すべき方向を確かな ものとして持っているのが未熟を感じさせて、しかしこの成熟と未熟というの は人間にとってどちらがいいのかという問題ではないのである。安定して成熟 した生活というのは要するに昨日と同じ今日が来てその今日と同じ明日がくる 種類の生活で、この小説の語り手と真紀さんが十年振りに再会したその十年が 「それを不在と感じるようなものすら」ないというのがそのことを示している のだが、はたして人間がそのような生活に耐え得るのかということがある。し かし耐える他ないのであって、子供が遊びに出掛けた後でこういう場面が訪れ る。

 ぼくも真紀さんもまたそこで一息つくと、静かでビールを飲み下す咽の音 が聞こえるくらいだった。離れたところを走っていくバイクの音が聞こえた だけでそれでもすぐに消えた。二人で黙って空や庭を見ていたが、そのうち に真紀さんが、
「今年は庭にテーブルと椅子置こゥ」
と言った。
「その辺?」とぼくがハーブの生えていないあたりを漠然と指すと、真紀さ んは「まあ、そうかな」と言った。
「海の家なんかによくある、アルミの軽くて丸いテーブルあるでしょ? あ あいうの。
 去年もおととしも、春のうちは置こう置こうと思ってたのに夏になると忘 れちゃうのよね」
「休みの日にバーベキューしたり?」
「あたしが一人でビール飲むの。(そこで真紀さんはまた「ハハハ」と笑っ た)
 大きなパラソル立ててさ−−」

 テーブルを置こうと思っていてもそのうちに忘れてしまうというのが示して いる明日が今日と同じであるということに対する確信がこの場面に静寂をもた らしていて、ビールを飲む咽の音が響いてくる。この静寂や安定といったもの が完全であるならば、それは間違いなく人間に耐えることの出来るものではな くて、真紀さんも子供達が帰って来ればこの静寂は破られるはずだということ を言う。そして完全であることというのはそれ自体が人間離れのしたもので あって、人間の成熟がいくら進んでもそこまで行くということはない。その完 全であるというのがこの小説に出てくる話でいえばイルカの知能だとかヨガの 行者の境地ということで、真紀さんはそこにあるのは闇なのだと言う。つまり そういうものは信じていないということであって、そこには言葉が届かない。 その姿勢は地に足がついているということに尽きて、肉体には二本しか脚がな いのであっても、精神が根を下ろす諸々の世界というのは時代が豊富であるほ ど増えるので、ここでまた時代とそこに生きる人間の両方に成熟と安定がある のだということが言える。それは言葉が届かないところまでを目指して進んで 行くといった種類の、要するに一つの世界を突き詰めるということとは反対 に、諸々の世界がなす自分の生活を認識することによって生活に生ずる落ち着 きと静寂であって、後にはただ人間というのが完全なものではあり得ないとい うことが残るのでも、そのことを静かに見つめるだけの安定がここにはある。


<目次>