この小説が題材にしているのがワープロの中の世界でのゲームなので、ゲー ムならば勝敗が問題になって殴るのと殴られるのを勝つのと負けるのの視点か ら見ることも出来る。そしてゲームをするものには上達するということがあっ て、だから殴られていたのがそのうちに殴る側に回るということにもなる。貧 乏だったのが漫画が売れてお金持ちになるとか、麻雀でカモられてばかりいた のが今度はカモる側に回るとかそういうのをゲームでいえば上達するというこ とで、しかし麻雀はゲームだからそれが文字通りのことになる。前に麻雀の上 達法みたいな話で勝ちながら上達するという話を聞いたことがあって、それを 擬似的なものにすると敵を倒すと経験値が上がるファミコンのRPGになるの だと思う。もちろん麻雀で一回勝ったからといってそれですぐに自分が強く なったのが実感できるわけではなくて、そういう真実味を与えるためにファミ コンのゲームでも大量の敵を倒さないと経験値は上がらないようになっている と考えられる。
どうしてファミコンの話をしているのかというと、笙野頼子はこの小説を書 くのにドラクエの攻略本を参考にしたそうで、ドラクエの勇者がお姫さまを助 けに行くという物語をその船出をする前の段階で座礁させたまま進んでいくの がこの小説であると言える。物語が成立するためにはそれを支えるのかそれに 支えられるのかする制度が必要で、その制度を向こうに回しての戦いが展開さ れるのである。そしてそれがワープロの中のゲームなのであってファミコンと かパソコンとかでないのはそこにあるのは言葉の世界である時にワープロを 使って書くということがその世界の中でゲームをすることに擬せられるからで ある。つまり書くということが制度を向こうに回してのゲームになるわけで、 物語というのが言葉の組み合わせならばその組み合わせを制度が崩れるような 方向へ持っていくことが必要になって、例えばお姫さまは「三世代同居住宅で 末永く幸福にトレンディに暮らしました」ということになる。
しかしこれはこの小説の仕組みを説明しているのに過ぎなくて、その仕組み というのをなしているのが言葉であれば、そこで言葉が生きている時に仕組み というのは生きている言葉を拘束することが出来ない。そしてこのゲームのプ レイヤー、あるいはこの小説の語り手がゲームに上達することによって次第に 言葉を言葉である状態にしていき、その言葉が物語とか制度とかを揺する。生 きているのは言葉であってその前には何もないのである。
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