フランスでは大革命以来の人権意識から自殺というのは自分の人権を侵害す ることと見なされているらしくて、ドゥルーズはそういうふうには考えていな かったと誰かが書いていた。ドゥルーズが自殺について何か書いているのを読 んだことがないから実際の所は知らないけれど、一般に人が死ぬことに対して は詮索を拒否する何かがあって、例えば吉田健一は三島由紀夫の死に際してそ の死は事故によると書いた。事故で死んだものについてどうして死んだのかと かどうすれば死ななかったのかとかいうことを言うのは意味をなさない。ドゥ ルーズの死よりもラビン首相の暗殺の方が新聞での扱いは大きくて、それはラ ビン首相というのが新聞の登場人物であってドゥルーズはそうではないという こととは別に、一人の哲学者の死というのは事件であるよりも事故である部分 が多い。これは三島由紀夫についてより明確であって、それは事故であり、ま た冒険家の遭難である。

 文学にとっての事件というのは一篇の詩、あるいは一冊の本の存在がすでに 事件であって、これは人間が生きていて言葉を使い続けている限り事件であり 続ける。その作者の生死は一冊の本の存在にかかっていて、人間が一人死ぬと いうことは要するに人間が一人死ぬことであって、これは掛け替えがないのと 同時に人間が一人生きていればそのうちには死ぬ。事故だろうとなんだろうと 死ぬということに再びということはない。そして言葉というのは絶えず再びこ こにあることによって言葉であり続ける。

 精神の断固とした健康が狂気への道を開く。それが事故に遭う危険を冒して ものことであり、命を落とすものもいればそこで生き続けることをするものも ある。生還することの許されない場所に出かけて行ったものが何事もなかった かのように隣に座って話しかけて来るように感じることが何かの本を読んでい るとある。恐怖を感じることも驚きを覚えることもなくて、そのことが既に一 つの事件である。つまり事件というのは平凡なものであり、ありふれていて、 大声をあげるようなことをしない。


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