文学史の男前(1)

 日本の現代詩や私小説を考えるにあたって、忘れてはならないのが白樺派文学
運動の存在です。ご存じの通り白樺派というのは武者小路実篤が中心となってう
まれた文芸同人誌の会で、その簡素な筆致と日本の土壌に合ったわかりやすい思
想は多くの人々に芸術というものを感受する母胎をつくりました。
 武者小路実篤を例にとれば、彼の書いた自由奔放な向きのある詩や散文小説は
一方は などに引き継がれ、高村光太郎の詩作に結実しており、その小説は芥川
龍之介をして「天窓のひらいたような感じ」と言わしめました。しかし、芥川龍
之介にとってその明るさは荒涼としたぼんやりとした不安としか感じられなかっ
たのかもしれません。
 さしあたって詩に於いては白樺派の契機によって自由詩が盛んになり、多くの
詩人が勇気づけられ各が考えるところの自由詩を大いに書き上げましたが、また
そのために詩形式が日本においてフランスや中国のの韻律を据えた具体的な形式
としてのまとまりを見せなかったということがいえるかもしれません。
 しかし今日俺達が老年の実篤の詩集などを読んで少し脳の状態が心配になるく
らいに感ずるあけすけなさは、例えば高村光太郎まで脈々と続いている部分であ
り、形式としては簡素な叙述としか述べられないこの自由詩にも、なにがしかの
理念がはたらいているのが伺えます。
 実篤の自由詩は我流であり受け継げるとするとその形式ではなくて心意気です
が、こんにちこういうあけすかなさはなかなか出せません、実篤の活動が目につ
いてそれを愚弄した漱石の弟子を、だがしかし人はなかなかあのようにはおめで
たくなれないものだと漱石は弟子をたしなめたことがあります。後輩の育成に余
念のなかった漱石ですから、実篤の文章になにがしかの期待をよせていたのは確
かなようです。その文章とはおそらくまるはだかという衣裳を着た文章であり、
日本の文章がはじめてここでまるだかという権威を持ち得たとも言えます。そし
てその素養は中国やフランスの外国文学そのものではありませんでした。
 白樺派の功績は森鴎外が主に培った漢文や翻訳の素養というのをあたりまえの
滋養としてうけいれ、夏目漱石の、たとえば坊ちゃんにあるような江戸っ子風の
あけすけない頭のうごかしかたを思想として抱いて、ある意味で漱石、鴎外両者
が時代的な背景からなしえなかった既存の自然主義の否定や肯定をおっとりとし
た生まれのよさからある程度なしえたといえるかもしれません。これは漱石鴎外
さえなしえなかった日本に、ある自然主義小説の一つのフォームをのばしていく
という可能性を秘めたものでした。
 たとえば白樺派が同時代的にロダンや新しい絵画を取り入れ、考えたというの
も彼らの金銭的な環境というものではなく、鴎外の素養と漱石の頭のうごかしか
たによるもので、当時退廃的とされた象徴主義の絵画なども新たな生命の躍動と
して白樺派は紹介しましたが、こういった勘違いからも白樺派というものがある
日本の土地にあるよりどころを持っていたからに違いなく、こういう誤解はたと
えば絵画のはなしでいえばフランスの印象派たちがジャポニズムといって日本の
浮世絵をさまざまな角度から受容したことと似ていて、その浮世絵理解の大半は
勘違いですが、おそらく異国情緒というものがある方法の自由を、とあるよりど
ころとともに約束したと考えられます。


 ある時代まで小説、詩に於いて白樺派は日本に自由な可能性を生んだといえる
かもしれませんが、残念ながらそれをそのままの意義において引き継ぐような人
格、文章はもはや生まれてきませんでした。多くの詩人たちは天窓がひらいてい
るにもかかわらずあるいじけかたを誇示したまま、ダダイズムやアナキズムなど
の洗礼をうけてしまい、打ち壊すものなどないのに個人としての破壊工作を初め
てしまったものとかんがえられます。人々はまるはだかのまま恥ずかしさのまま
うめきのたうちまわったり、無駄に鎧や衣裳を着込んだりすることを余儀なくさ
れたのです。しかし、そのいじけかたの自由も、白樺派の自由な散文のフォーム
が可能にしたと言えます。日本の詩や小説は良い意味で最低な文学のモデルとい
うものを獲得したのです。
 白樺派はつまり最上級の文学、あるいは純文学というものを芸術的地位におい
て至上として考えたのではなく、おっとりとした意志の表明からごくあたりまえ
の、人間として最低限の条件、良い意味で最低の文章表現、ヒューマニズムを芸
術性、純粋性の燃料として一歩一歩確実にすすんでいきました。

 しかし、その後文章はより多くの変貌をとげるはめになりました。これは恐ら
く技術的な意義でなく、自意識や私というものを作文家が考えたためで、たとえ
社会的にアナキズムを標榜しようとも、文章の継承は白樺派のヒューマニズムを
母胎としているために、徒党をくみ、社会的なビラをまいたとしてもそれは個人
的な表明の域をでませんから、これは白樺派のいう人間愛や、自己中心的に見え
る態度のうらがえしとして、エゴイスティックな近代的な自意識のモデルという
ものを強化するだけでした。
 その後日本の詩壇はかろうじて北原白秋と、当時在野であった宮沢賢治の詩風
景を継承した中原中也を生み、白樺派の資質はそのような詩風景をもたなかった
小林秀雄によって小説や批評へとまたあたらしく不可解な転化をされてゆき、そ
の後の新感覚派や戦後派などの文学の安定は西洋文学を素地にした一部のひとび
とには、文学的な混迷や挫折として受け止められています。

 印象派も白樺派もはじめは当時の民衆と下世話なアカデミズムや文壇といった
ものが名付けた悪口にすぎませんでした。他の前衛的運動と違い、今日でも未だ
馬鹿扱いされることのある白樺派、あるいは実篤のまったくもって深刻でない受
難というのは、今日で多くの批評や小説というものの文学形式の重さや軽さとい
ったものの持つ悲哀や悲喜劇というものからは趣を異にしています。
 しかし古今の人々の多くは白樺派の素養もあけすけない頭のうごかしかたとい
うのもお坊ちゃんの脳天気としてのみ理解していましたし、やがて訪れた軍国的
な気風にかきけされてゆき、その功績は民芸という大正に生まれた新たなジャン
ルや、志賀直哉の文章の持つ模範的簡略さへの賛辞などに今日かすかな功績をの
こすのみですが、その功績も忘れ去られようとしています。
 今日俺達の誰一人として詩と小説の明確な区切りわけを行えないというのも、
おもだっては日本で白樺派以降だれも批評という手段にしろ何にしろ、その白樺
派の思想的な気骨を個人としてでなしに社会人としてひきうけること、あるいは
その思想風景を馬鹿という言葉なしに的確にはねのけ、白樺派に対峙するような
背徳者であることをしなかったので、おそらくつくりだされるものに曖昧さを持
ち、読まれるものに象徴詩と自然主義小説の区分けが曖昧なまま、現代詩と私小
説という名目でひきついでしまったためであると考えられます。
 そうしたときに現代詩と私小説というものや、批評というものを区分けする必
然性があるかといえば、経済的な意味において他にはないような気がします。実
際に白樺派などを中心とする作家軍は、円本の普及によって急激に古典化し、今
読んでも精気のうかがえるその文章は、馬鹿とも言い尽くされないうちに小説の
古典として扱われました。これは出版経済のたまものです。
 日本の文学文芸というものは白樺派の時代辺りからその曖昧さがかえって明確
となり、アメリカにおけるジャズミュージックのように、様々な要素をどんよく
に吸収し、詩や、散文や、批評文といったものがいっしょくたになったような、
象徴的な自然主義文学ともいえる形態をおこしたといえるかもしれません。また
そうしたジャンル分けによって、今日の私小説ブームや現代詩ブームというもの
を、経済的、または精神的にも負い目を感ずることなく受け入れ、あるいは拒否
することができるのではないでしょうか。

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