頑丈な生活(1)

 我々の一人一人はそれぞれに他のものとは関連のない一人の人間として生きて
いて、その一人の中でもそれぞれに雑多で多様な首尾一貫しない行動や考えが入
り交っている時に、それでも自分が自分であることを疑う余地がなく、また他の
ものに対してもそこに自分と同様に人間であるものを認める他ないというのを説
明するために人間という観念が生まれてきたのであり、そしてこの観念に基づい
て成立しているのが小説という形式である。小説というのが人間を描くものだと
いう当たり前すぎて誰も言わない前提がここにはあるので、この人間という観念
が万能ではないという事実を前にして色褪せる時、小説もその限界に直面する。

 オスカー・ワイルドは現在の小説が人間の魂の奥底を描くその描き方がまだま
だ足りていなくてそれを徹底的にやり尽くした後に小説というのはもうなくなる
のではないかということを言っているが、ここで示されているのは小説が人間の
観念を分析し、研究し尽くしていくうちにその観念が解体され、その結果として
小説そのものが解体するということである。人間という観念は自分が自分である、
あるいは人間であるという実感を根拠として成立するものであって、その逆に人
間という観念を前提として我々が自分を人間であると認める訳ではないので、そ
の実感との連絡を絶たれた所にこの観念は存在し得ないし、そこには小説が存在
する余地もない。したがってこの観念の解体というは小説が我々に人間というも
のに対する実感を持たせる能力を喪失させることになる。

 人間がその観念によって一般化されるのに従って人間の存在の実感が揺らいだ
空隙を付いて小説が発達した。

# ワイルドの「小説は病的になりかたがまだまだ足 りない」、形骸化した「人
# 間」の観念に対応して実感を求める。あるいはこの実 感というのは当時のヨー
# ロッパでは問題にされていなかったので、 観念は大雑把であるほど有効に働
# く時に、人間の精神の活動がこの大雑把を認めなくて、その追求が観念、また
# 形式に向かい、そのために観念とか、形式とかいうものが解体する。でもただ
# 解体するのを目的に書かれたようなのを読むとそれは違うので、ここで重要な
# のは頑丈な精神によって行われた仕事という部分である。

# リットン・ストレイチェーまで話を持って行く。

# 「ヴィクトリア女王」で恋愛小説の形式が用いられたこと、フランスやオース
# トリアに比べてのイギリスの当時の状況(社会の安定? 保守的?)、心理学
# ブームの影響、モダニズム、ブルームズベリー・グループなど。

# キャリントンとレイフの間におとずれる危機、それへのリットンの対応など

 ストレイチェーやその周りの人達のおくった生活を見て我々は非常に生き生き
とした人間の息吹を感じる。ここに19世紀における観念の支配からの人間の独立
を見ることも出来て、目の前で起きている事態に対応するのにその才能を注ぐと
いう態度にワイルドを思い出すことが出来るが、ここではそれがより穏やかに、
上首尾に実現される。




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