批評の経済(1)

 よく批評のことを何か値段をつける態度だと思っていて、これは幾らくらいの
価値があるので値段はいくらで、あるいは時間はこのぐらい見積もる価値がある
にちがいないという尺度になるものだと言うことがある。人は普段から批評につ
いていくらも考えないしそれよりもまず生活がすさんでいて日々の経済に追われ
ているので気がつくとそこには死が待ちかまえていて、日々の経済を考えると本
を読むというのは死んでからのことになってしまい、なかなか日々の経済を後目
にして本を読むということもうしろめたくなっていて、批評というものに対する
誤解がそれに拍車をかけていて、値段や価値だけ多く知っておいて、知らぬ間に
誰も望まないような経済的な輪廻がそこにできあがっていて、本を読む人間はす
べて世捨て人のようであるとかいう話もでっちあげられないこともない。そうす
ると批評とはどういうもので抒情とはどういうものでそれが分かる人間はどうで
分からない人間はどうだという所在を明らかにしなければ経済的な競争価値や
様々な団体での予算がおりないので評価は下せないので良いとか悪いとかいうこ
とも分からないということもあるかもしれない。
 ある人が本当にものを書いたり読んだりということは実際にはそういった輪廻
からはずれているので、真の読書家がものを書くということはありえないし、も
のを言うこともないし、そういった個人的な時間に別の人間や経済の輪廻が出く
わすということはない。
 それで俺達がものを書きたいと望んだり読まれたいと思うのはそういった配慮
からなので、当然言葉は死んでゆき心意気も死んでいくし体温は限りなく奪われ
ていって残っているのは残像にもならない緩い態度だけかもしれない。それとは
違って死んで死にきるというような徹底性は経済的に見ると純粋な労働というよ
うに見られていくので、有り余った価値がまた情熱や抒情を生んで人は輪廻から
のがれられないし、遠くから見れば同じ様なこの輪廻は近くで見れば違った名
前、形をもっていて人はそれを作者とか作品と呼び愛し吟ずるが、そのことと個
人的に出会った作者とも作品とも呼べない本のことには関係がなくて、愛し吟ず
るというのがすでに死んでしまった後の自分がする死んでしまった心へのいたみ
のうたというのを知らないで人は日々の経済を邁進する。
 形式が言葉を支配するということを夢見ないひとはいないのに、それができな
いのは批評が値踏みをしているからではなくて、言葉が届いて脳髄に届きまたそ
れを打ち返し別の人の脳髄に届くのが一瞬でできないからで、舌打ちする情熱は
そのまま形式への過剰な愛着になったり形式への横柄な態度ということになって
現れて、切迫した誠意はそういった形式やことばに値段をつけていって安心しよ
うとして魂はよけいに渇きを増す。
 もし形式が死に絶えるということがあっても人はあまり悲しまないので経済の
枠から飛び出てしまった形式というのは弔われずにそこかしこをさまよってい
て、そういうときに流れる鎮魂歌があったとすると、人はそれにも耳をかたむけ
ないので、何もわからずに形式は俺達のそばでひっそりとでもなく行き場もなく
たたずんでいる。
 書くということと読むという行為は表裏一体のようではあるけれども、全く別
の原理からできているのでお互いにめいめい出会いをのぞまないし、それに一体
感があるとすれば経済的な価値観の上にあり、人が生きるのはその範疇外であっ
て、文学だけがそれに出会い立ち止まってどもる。
 批評はそのどもりから不可避ではないので、書くだけであったり読むだけであ
ったりというのはちっとも無知なことではないというのは誰でも知っていて、な
ぜかその書くという行為読むという行為の境界がぼやける人間に出会うと、人は
その人のことを無知で無価値という値段をつける。

<up>