軽評論-1
小林秀雄はもともとは白樺派で白樺派というのはもともと力をいれていたのは
小説だとか戯曲ではなくて一番の功労はその抒情と詩であるから、例えば高村光
太郎などは白樺派の影響を受けていて、ときどき高村光太郎にでてくるまずさな
んかは白樺派の影響と思われる。
それで当然小林秀雄が志賀直哉を誉める手さばきも「なんともしれん抒情だか抒
情じゃないんだかわからん文体」とかいう詩みたいな褒めかたをしていて、確か
に小説の文章も上手下手はないし、詩の抒情にも上手下手は言えないわけだが、
その二つは同じことではないので、「なんともしれん文体」というのは小説の褒
めかただと思われているものとは趣旨を事にすることもあるので、志賀直哉の例
えば蜂が死にそうになってふるえているとかいう私情をはさまない表現を旨いと
するご時世で反感をおぼえながら育った作家として三島由紀夫がいて、今日三島
由紀夫のものを読んで我々の独りとして面白いだとかつまらないだとか、そうい
うことすらさっぱりわからないのはそのためだろうが、小林秀雄が批評家として
一流であって主流ならば、やはり三島由紀夫は小説を書いていないことになる。
小林秀雄は自分で詩も書くし出発点は志賀直哉の散文だがランボーとか中原中
也の友達とかいう様々な分量をポンドきっかり計ったとすると、つりあうのは宮
沢賢治みたいな宗教家が、べつに文学だとか科学だとかいうものはたんなる媒介
であって、その媒介によって何ともいい知れない「この存在」とかいうようなも
のを表したいというよくぼうにつながるだろうし、志賀直哉ならそこの部分の欲
望は若い性欲と健全な肉体とあとは快不快という単純なものに帰依する。
小林秀雄のやり口として宮沢賢治だったら信仰があって信仰に直接にはつなが
らないんだけれども「この存在」というもののなんともしれないものを伝える実
験の部分が、「なんとか論」だとか「なんとかについて」という批評文になっ
て、これが何を生み出すかと言えばとある文学理論や技術ではなくて、モーツア
ルトならモーツアルトという言葉が醸し出す詩的な抒情で、大抵の人が口をすべ
らしたり言い間違えて記号と呼ぶものも単なる言葉の醸し出す抒情なので、本来
言われているだろう記号というのとは趣を異にする。
それで小林秀雄は本居宣長をもってきて源氏物語はもののあわれというキーワー
ド、抒情で読み給えというようなものが今日俺の言う抒情であるとするので、真
っ向からそれに対峙しようとしてまたそれと同時に文学理論や技術といったもの
を相手にするのには苦労をする。それでその苦労は体力だけでなく精神力も使い
果たすこともあるので、どうしてもそういうことをいう文学者は短命になってし
まう。長生きをしたければ体力だけでたくさんの自作品を書いたり延々研究と申
し述べて一字一句詠んだりすれば精神をすりへらさないので宜しいということに
なって、なかなか本来簡単であったようなものが簡単でなるなるという風潮はあ
るようで、そういった風潮をこれまためんどうくさいのでエピゴーネンといった
ソフトな抒情でまるめこんで、そういったある種の語感をもった言葉の累積さえ
あればアカデミックであったりインテリであったりと読んだりする傾向があり、
これは抒情でもあり敬意でもあれば侮辱にもなり、これは言葉というものが本来
持つ機能というよりは詩的な抒情の意味なので、どこかで価値の倒置が起こって
いると思われる。
それでマルクスの資本論をねっころがりながらよんだとかいう毒にも薬にもな
らないような話ではなくて、そういう大層な仕事は大層なように読んで、大層で
はないが本を閉じたくなるということがない坂口安吾の堕落論だとか、小林秀雄
の批評評論というものを軽批評というジャンル分けにすればよくて、そのときの
基準としてはその書いている人の質や書いているものの質で見るのではなくて、
実際に書くのに書いた時間が一時間以内なら詩で、それより一ヶ月以内ならば軽
評論、それより時間がかかるものはいなかる利用があろうとも大抵小説で、五十
年以上かかるものを論とする基準にすればどうだろうか。そうしたとき今書かれ
ているものは一時間を丁度一分程度こえるものなので、軽評論のなかでもより軽
いものだということが言える。
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