試みに生きる(1)

 都市という言い方には味気ないものがあって自分自身の住んでいる街に愛着が
あるものならそこを都市と呼ばれていい気がするということはないと思う。家の
近所には家の近所の風景があってそれが他のものではないと思わなければ毎日そ
の近所を目を閉じたまま何も考えずに通過しているのに過ぎないと言えて、実際
にそういうふうでしかないような人がいてもおかしいとは思わない程自分の住む
所というのをないがしろにする風潮は強くて、その風潮も細かく変遷していると
は言っても結構長い間にわたって続いているのも確かである。
 いつまでもこういうことは長くは続かないと我々は思っている。ムージルの
「特性のない男」の主人公が街外れの城を借りて住んでいるというのは一時的に
そうしているという彼が小説の中で口にするエッセイズム、試みに生きることに
関るもので、いつまでも続かないということは当時のウィーンというものを現在
から見たときに確実に我々の頭をよぎる。そして多くのものが統一性を欠いたま
ま空中を浮遊しつつ人々の心を占め、その間をかろうじて一個の人間であるもの
が歩行するのを現在の我々が眺める時に感じる豊富というのがあって、これは崩
壊した人間でも枠に押し込められている人間でもないものの自由がそこにあるか
らである。崩壊を目前において、また戻るべき枠もない人間という過渡期の存在
がそこにある。
 ここで崩壊というのが具体的にはナチスによってもたらされ、それは大衆とい
う巨大で平板な枠に人間を押し込むことによって行われた。それまで崩壊という
のが想定していたのは個々の人間を地面につなぎ止めるのに必要だった枠が完全
に取り払われるために起こるものであったのに対し、その解決方として統一した
理念による人間精神の統合が目論見られていた。どのような理念にもその正反対
の理念があってそのどちらが優れているのかは誰にも判断が付かないのであれば
袋小路に陥るほかなくて、これを統一することへの望みはほとんどそれが何であ
るのか分からないものへの熱望へと変わる。無数の理念を統合するのを望んで何
か行動を起こそうというのは要するに無意味なことをするということでしかない。
この無意味ということを顕在化して、大衆というそれを統一するのに何の意味付
もないもので統一し、これは誰でもないということによって誰でもがそれに属す
る集団となった。これによって無意味なことをするという滑稽を免れるのと同時
に個々の人間であることの意味もなくなり、何一つ確かなものがないことによっ
て何でもありうるという豊富の状態は崩壊する。しかし現在においてこの確かな
ことが何もないこと、言い替えれば問題の概念が我々の目の前からなくなってい
るわけでもないし、また我々が大衆でなくなったわけでもなく、都市の住民は今
でも都市の住民として生きている。
 都市というのは群衆の存在によって定義されてその群衆の非人間的な性質を受
け入れることができなくても、群衆は都市をうろつく人間を包み込んでその中に
浮かんだ姿のまま受け入れる。ボードレールという例をここで出すまでもなくて、
薄っぺらなだけに強固で理不尽なしがらみから脱して、群衆のなかに浮遊する物
体であることの誘惑に逆らうことは実際に難しく、またそういう存在であること
を受け入れることができなくても、他の何かであるわけにもいかなくなる。何か
であることが出来ないということで、都市というのは場所であるよりも機能とし
て我々の目の前に広がる。
 試みに生きるということをするにはその材料となるものの豊富が前提となる。
そのような豊富が現在我々の前にあるとはいえないのは多様性の暴力的な統一に
よって例えば我々の生命というようなものが脅かされたことによって、どのよう
に生きるのかということよりも生きることそのものに注意を向けざるを得なくなっ
たために生命の維持に直接関りのない領域に深く足を踏み入れるだけの余裕を失っ
たのを回復していないからである。自分の住んでいる町並というようなのは生命
に関りのあるものの一つである。それに我々の注意が向かないというのは実際に
我々が注意を向けているものが何なのかという問題を残す。

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