日本文学の男前-1

  実際の所はどうだろうと日本の文学がもののあわれとかたおやめぶりとかいう
ことになっているのならばそればただそうなっているだけであっても人を動か
し、つまりそのことが日本文学に影響を及ぼす。言い訳が必要な時に嘘を付いた
らその嘘がそのうち本当のことと区別が付かなくなることもある。
過去が現在を導くのと同時に現在が過去を変更するというエリオットの考えもこ
の文脈の中で読める気がして、ある事柄が事実をなすのを支える一つの秩序は新
しく事実をなした事柄によって変更され、この新しい事実は前の秩序にとっては
嘘であると言ったら正確ではなくてもここで嘘であると言うことには意味があ
る。
既定の秩序に対する意識がその中での新しい事柄を嘘であると認める働きをする
のと同時にその秩序に接続する働きをするのであって、つまりそこでの秩序を固
定したものと見ることによって嘘を嘘と認める根拠が生まれ、そのうえで嘘を付
くことによって秩序を変更する。その時その嘘は言い訳でもある。 

日本では九世紀頃の文学の主流は漢詩文であり、それは日本語による文学を根絶
する懸念を現在のの我々が見るときに抱かせるのに足るもので、その時期を経て
も生き残るどころかそれに続く数世紀の間に文学としての頂点に達し、これは同
じことであるが文学の限界を経験した日本文学を知る時に、このことはどこか不
思議な感じを我々に与える。しかしこの理由は色々と説明が出来て、それは源氏
物語では男女間の会話の殆どが詩によって行われていることを知って我々が驚き
を覚えるように、この当時の貴族の間に浸透していた類例のない恋愛の方法が何
らかの働きをしたものと思われる。
届けられる短冊に書かれた詩の出来映えによって女が男を自分の恋愛の相手に相
応しいかどうかを見極めてその可否の返答も同じように詩によって行われ、最初
に詩を送った方の男は返ってくる答えを身を焦がす思いで待った。ここで重要な
のは当時いくら漢詩文が主流を占め、また公式の文書が中国語で書かれることに
なっていたとしても女は建前上中国語を習うことが出来なくてつまり中国語の読
み書きは出来ないので、高貴な女は夫以外の男に姿を見せることが出来ないとい
う当時の習慣のために何か書いたものでしか男女間の意思の疎通が図れない以
上、また恋愛が当時の貴族の生活で占めていた位置から言っても日本語による詩
の制作を放棄することは出来なくて、このことが日本語による文学の復活をもた
らしたと考えれられる。日本人の性質と言うようなことをここで敢えて持ち出す
なら、この恋愛の方法、あるいは別の言い方をすれば女に対する男の接し方とい
うものが日本人に独特なもで、また独自の国語というものの必要が生じる位には
当時の日本人の生活において言葉に与えられた重要性は大きく、その言葉が中国
語では用をなさない場面が多すぎた。しかしそれと同時に日本人は外面を気にす
るというのも我々がよく聞かされることで、一人前の国である日本でそれなりの
地位にある男が中国語以外の言葉で何かを書くと言うことは要するに外面の悪い
ことであったので、もし何かやむにやまれぬ気持ちになって書きたくなったこと
が中国語の表現に適さず、日本語で書く必要が生じた場合には言い訳が必要であ
りそして嘘を付かざるを得ない。 
 土佐守というそれなりの地位を持つ男である紀貫之が自分の一番可愛がってい
た娘を土佐で亡くし、その悲しみを黙って閉じこめておくことは出来ない気持ち
になって書いたのが土佐日記であると言えるが、この書くことの動機自体が一人
前の男のすることではないとみなされかねないし、敢えてこれを男の立場で書い
たとしても中国語による表現がここで述べられようとしている心情に適している
とは考えられず、その結果彼は嘘を付くことを思いついた。自分は女でありこれ
から日本語で日記という男がしているらしいものを書くのだというあの有名な文
句がここで生まれる。これは古今和歌集によって和歌を漢詩に対抗する位置にま
で高めることをもくろんだものが付く嘘であり言い訳であって、この土佐日記の
はじめの一文に出会う時、我々の前にあるそれまでの秩序に変更が加えられるの
を見る。菅原道真は息子を亡くした悲しみを漢詩に託していて、それは確かに中
国語でもそのような表現が可能であることを示して事実読むものを動かさないで
いないが、紀貫之には日本語による詩、あるいは文学に対する確信があり、日本
語でしか言えないことがあって今から言いたいことがそれであるのを知っている
ものにとってそれを中国語で書くというのを意味をなさない。そのことに対する
意識によって彼は嘘を付いたのであり、その嘘が既存の秩序の変化を示し、また
形成されつつあった伝統に拍車を掛けてそれ以降十二世紀まで続く日本文学の隆
盛の屋台骨になるものをなしている。 

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