メロスはほとんど全裸だった。呼吸もしてはいなかった。目も見えていなかった。二三度、口から血がふきでた。メロスは走っていた。

「ああ、メロス!」
うめくような声が風のなかから聞こえた。メロスは走った。
「フィロストラトスでございます。あなたの友達の、セリヌンティウスの弟子です!」
その若い石工も、メロスについて走った。
「もうダメです。走るのはやめてください。もう、あの人を助けることなんてできないんですよ」
メロスは走った。

「もう、あの人を助けることは、無理なんです」
メロスに答える気力はほとんどなかった。しかし、メロスは答えた。
「まだだ!」
メロスは走った。
「ちょど今、あの人が死刑になるところです。ああ、今となってはあなたを私はうらむ。なぜ、もう少しだけ、早くいらっしゃらなかった!」
メロスは走った。
「まだだ!」
メロスは走った。
メロスは走っていた。体はもはや止められなかった。走るよりほかにはなかった。
「まだだ!まだだめだ!」
若い石工はメロスの気の毒に泣いていた。メロスはどうしようのないばかだった。

「やめて下さい!このままではあなたも死んでしまう。セリヌンティウスはあなたを信じていましたよ。王がどんなにからかっても、メロスは来ます、とだけ答えていましたよ。セリヌンティウスは、最初から最後まで、始終あなたを信じていたんですよ。メロス、あなたを信じて死ぬのです。友情は守られた!だから、やめて下さい。このままでは、あなたも死んでしまいます」
メロスは二三度血をはいた。メロスに答える気力はほとんどなかった。答えることは体にこたえた。しかし、メロスは言った。
「だから、走るんだ!信じられているから走るんだ!間に合う、間に合わないではないんだ!人の命ではないんだ。俺は、なんだか、分からない、もっと、恐ろしいもののために、走っているのだ!」
メロスは走っていた。
「ついてこい!」

フィロストラトスは泣いていた。メロスの気の毒に泣いていた。

「ああ、あなたはばかだ。おおばかものだ!無謀だ!ほんとうのばかだ!どうしようのないばかだ!
 ならば、うんと走るがいい。あなたは死んでしまう。それでも、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合うかもしれない。そのまえに死ぬかもしれない。メロス。それなら、それまで思い切り走るがいい。」

 メロスの耳はもう聞こえていなかった。ぼうぼうと変な音だけが聞こえるばかりだ。なにか、大きな力にひっぱられている。太陽は最後の光を消そうとしていた。メロスは走った。太陽は一筋だけ光を残していた。メロスは走った。太陽は一筋だけ光をのこしていたが、やがて、まっくらになった。一日が終わった。
メロスは刑場についた。


間に合ったのだ。


「待て待て!その人を殺してはだめだ!メロスが帰ってきたのだ。約束のとおり、いま帰ってきた」

 メロスは叫んだ。しかし、のどはつぶれていて小さな声しか出せなかった。あまりにみずぼらしく、小さな声だったので、群衆はだれもメロスに気が付かなかった。
 縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々につり上げられていく。メロスは濁流をかきわけるように、最後の力で群衆をかきわけ、磔台のセリヌンティウスの足の部分をつかんだ。
「俺だ!俺だ!殺されるのは俺だ!このひとではだめだ!。このひとはだめだ!殺されるのはメロスだ!」
 メロスはわめきちらした。群衆は驚いた。それから喜んだ。あっぱれ、ゆるせ、と口々にわめいた。手をたたいた。

そして、セリヌンティウスの縄はほどかれた。


間に合ったのだ。

[EOF]