日記 - 2002年1月


2002-01-08

xemacs-patches

久しぶりに xemacs-patches にメールを送った。自動返信のメッセー ジは来なくなっていて、皆が subject に [PATCH] とか [COMMIT] と か付けてるのもどういうルールになっているのか細かくは解らないが、 余り気にしないことにする。

そんな感じでメールを書いていると英語が出来ないのが不便なのを痛 感するので勉強しようと思うが、この前イギリスに行ったときも英語 が解らなくて困って、帰ってから勉強しようと本を買ってきたが結局 やってない。怠け癖が心に痛い。

2ch

毎日飽きもせず2ちゃんねるを読んでいるが、どういうのが好きかと いうと こういうの が好きだ。

2002-01-17

ターミナルから日本語入力

XEmacs で日本語を入力するときは SKK とか Wnn とか Canna とかの 直接 XEmacs の中から入力できるやつではなくて Windows だったら IME、X だったら XIM を使っているので、たまにターミナルから日本 語を入力したくなったときに困ったことになる。そんな時には SKK でも起動すればいいんだろうけど、普段使わないものだから使い方が 全くわからなくて四苦八苦するのが面倒で、それでターミナルから直 接日本語を入力する方法を模索することにした。

TTY コンソールを初期化するところで入力を受け取る decoding stream が作成されている。XEmacs には stream という、要するに C++ とか Java にあるような抽象化された入出力機構があって、その 中には decoding / encoding stream という文字コードの変換の出来 る stream がある。TTY での入出力は基本的にこの stream を使って 文字コードの変換を意識することなく入出力が出来るようにするとい う意図を持って作られているように見えて、実際、出力部分は全般的 にこの stream を使って書かれているので terminal-coding-system で設定された通りの文字コードでターミナルに出力が出来る。しかし 入力の方は一応それ用の stream 自体は作られているが、実際に入力 を受け取るところではそれは使われていなくてただ単にファイルディ スクリプタから read しているだけになっているので、 keyboard-coding-system を設定しても、それは実際には機能しない。 ちなみに stream を作っているのは console-tty.c の tty_init_console ()、入力を受け取っているのは event-unixoid.c のread_event_from_tty_or_stream_desc () である。

手始めにまず入力を受け取るところで stream から読み込むように変 更してみたところ、入力してもうんともすんとも言わなくなってしま う。XEmacs の stream はそのままだと buffered stream として働く ので入力がバッファリングされてしまうのが原因のようなので、 unbuffered stream として機能するように定義してみる。そうすると 一応入力は受け付けるし、日本語の入力も出来るようになった。しか し TTY から入力されるのは普通の文字だけではなくて改行コードや コントロール・コードも入ってきて、これをそのままdecoding stream に渡すと普通のファイルの改行コードと同じように処理して しまったり、ISO 2022 のコントロール・コードだと思い込んでしまっ てうまくいかないので、どうしたものかとしばらく考え込む。それで GNU Emacs のコードを眺めてみると、こっちは例えば

(decode-coding-string "^N" 'euc-jp)
=> "^N"
      

となるが XEmacs だとこれが空文字列を返してくる。それとは関係な いが GNU Emacs の方はターミナルからの入力は encoded-kb.el で Lisp のレベルで処理されているようであるのでこれを XEmacs で動 かしてみようかと思ったが Lisp はよく解らないので、ってじゃあ何 で XEmacs を使っているんだという話になるが、とにかく C のレベ ルで何とかしようと考える。それから今検索したら 一年以上前の話 だが 林さんが移植を試みていた 模様。

file-coding.c を眺めながら何とかならないものかと思案してみるが これを大々的にいじるほどの心の余裕はないので思い切って入力のた びに stream を作成して一文字読み込みそれがマルチバイト文字つま りコントロールコードや ASCII 文字でなければ見なかったことにし てそっと元に戻して decoding stream を作成して文字コード変換す るといういいかげんな対応をすることにした。よって ISO 2022 のエ スケープ・シーケンスは全く無視なので、EUC と Shift JIS の場合 のみ入力可能という大変へたれではあるが、そこに落ち着きどころを 見出した。 パッチはこんな感じ。

2002年01月26日(土)

#1 日記

HTML のファイルを直接編集してこれを書いていて、日記用のタグを 毎回自分で入れるのは面倒なので Emacs lisp でそれ用のコマンドを 作ったのを併用している。そのコマンドを作り直したのでこれからは hns とかを使っている人がやっているように日付とか題目ごとにリンクを 張ったり出来るようになって、これで 俺の日記に誰もリンク張ってくれません というような問題も解決されるのかも知れないが、しかしもともとア クセス数も Referer もチェックしてないのでリンクされても気がつ かないし、そもそも知り合いのホームページで日記を書いている人た ちの間にはお互いの日記にリンクを張って会話をするという習慣はな いようなのであまり役に立たないかもしれない。いずれにしてもその うち Referer のチェックは出来るようにしようと思う。

それとは関係ないが、訪問者リストとい うのを設置しているのは昔インターネットが個人でも使えるようになっ てみんなこぞってホームページを作っていたような頃はたいていこう いうリストを付けていたのでそれに倣ったものだが、多分今までで五 年くらい動かしていて、その間に三十五人というのは寂しい感じもす るが、最初はその頃のネットをやっていた友達が名前を連ねて、その 次は会社に入って知り合った人たちの名前があって最近はルケーチの 人たちという感じで、自分の人付き合いの範囲に比して適切な量であ るところがかえって愛着を持たせる。

2002年01月27日(日)

#1 ルケーチ

大久保の HOT SHOT というライブハウスで 遁生レコード の企画ライブに ルケーチ が出るので見に行く。恐らく今までで一番気合を入れて音楽をやって いる人たちとの対バンで、ルケーチの皆さんも気合の入った演奏をし ていたが、宮沢さんは一曲終わるごとに息が上がって疲れたとか言っ てるし、ラッパさんと竹内さんは掛け合いの漫才みたいな MC をして るし、鹿島くんはスピリチャルのギターソロで久々にへなちょこなプ レイを見せていたし、抜けるところはちゃんと抜けていた。

ブランのアダチさんがビール担当の人って言うのは誰だと言っていた らしくて呼ばれたような気がするが、酔っ払っていたので話をする機 会を逃してしまったのが少し残念である。

2002年01月28日(月)

#1 東浩紀「動物化するポストモダン」

特に読むつもりはなかったんだが、 リンク先 に色々と感想などが書かれているのを見るうちにちょっと興味が湧い てきたので、とりあえずリンク先のホームページで書かれているのを まとめてみる。

偽日記 01/11/21 および 01/11/24

多分この本に決定的に欠けているのは「資本主義」というものに関 する考察で、それなしにオタク的な消費の話をしても、それはユン グ的なものに落ちつくしかないと思える。

批評は社会学ではない (ニンジン戦線)

『動物化するポストモダン』が批評の仕事だとは思いません。(…) あれは批評ではなく社会学です。ぼくがあの本をつまらないと思 うのは、東氏がアニメやゲームについてまともに論じようとして いないからです。あの本の中でも、アニメやゲーム作品について 個別的に論じている箇所は興味深い。しかし、あの本において東 氏の関心はそこにはなく、それらの作品を社会学的に位置づける ことが主題です。

電波とどいた?

基本的に「クオリティ」という概念が欠落している

某日記

「物語消費論(という既に文章になっているもの)で語られてること を、 何で今さら…」 ではあるな。

kei natsui's website

現在ではデータベース的な水準での趣味判断が優位にあり、物語的な 水準での趣味判断が必要とすらされなくなっているという話なんだけ れども、なんというか、これは水平的な変容ではなく、やはり退化で はないのかと感じてしまいます。

という感じで宮台真司、または大塚英志の亜流、あるいは焼き直しと して受け止められていたり、果てはユング呼ばわりまでされていて全 般的に散々な評価であるが、個人的に興味があるのは「偽日記」の人 が書いているのと同じように、東浩紀自身が 私とハイデガー などで予告してる「動物の現存在分析」という部分が中心になる。言 葉や観念を属性へと解体していくのはマラルメとかプルーストとかの 近代文学の特質であるのは確かでも、それを「萌え要素」というよう な言葉でゲームや漫画を題材にして分析していけないことはないし、 近代文学というのは既に終わったものであり、またゲームや漫画はそ の近代文学と同様に近代という時代を基礎として成立している以上、 そこで継続する近代の諸形態を分析するのに有用な題材であると見る ことも出来る。

似顔絵はそこで書かれた人物に似ているのと同時にその似顔絵が流布 することによって人物はその似顔絵に似てくる。そして例えば外人の 似顔絵というようなものも成立しうる。データベースというのがフー コーやサイード、あるいはそれを受け継いだカルチャル・スタディー ズといったもののある中でどういう形で示されるのかにも興味を惹か れるし、前に批評空間のシンポジウムで東浩紀が盛んにポスト・コロ ニアリズムというようなことを言っていたのに周りが話に乗らなくて 寒かったという話をそのシンポジウムを見に行った小林から聞いたの で、その後東浩紀がそういう種類のことについてどういう風にまとめ ていったのかも気になる。

というような予断が出来上がったところで実際に本を読むかどうかは 解らない。

#2 XEmacs

IME の変換ウィンドウでコントロールキーを使ったコマンドが実行で きないというバグ報告を頂く。要するに変換ウィンドウ上のキー・イ ベントが XEmacs に食われてしまっているので、これをちゃんと調べ ればカナ入力だとがおかしくなる問題の原因も見つかるかも知れない。


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