絵空ごとでもそれが何に対しての絵空ごとなのかということで話が違ってくる。この絵空ごとというのを現実離れした話と取るならば、その現実というのが受け入れ難いものに映る人間にとっての絵空ごとは現実への反発の形を取り、そしてその人間にとっての現実であるものを求めて行く先にあるのが絵空ごとなのだとも言える。ここで現実には二種類の形があると見ることが出来てそれは現実の定義に反し、従ってそのどちらかが贋ものであることになれば、その贋ものである方の現実に対して強い調子の言葉を浴びせることによって自分にとっての現実を守ろうとする、あるいはそうして守ることに対する意識が贋ものに対する攻撃の形を取る。

 そうした姿勢がある種の攻撃性に繋がり、風潮に対する拒否と守るべきものに対する愛着によって世界があるいは現実と絵空ごとの二つに分かれるということもあるのかも知れない。文章を書く時に何かを否定してそれから自分の肯定するものを持ち上げてそれで論をなすという方法は常套のものであり、一般にはこう思われているが実際にはこうである式の文章が次々に書かれていると見ることも出来るが、ここまで来て現実というのが一つのものでしかないことを思い出す必要がある。目に映る全てのものを否定されるものと肯定されるものに区別して行ったその先にあるのはそこで要求される選択と越えることの出来ない境界によって身動きが取れない状態であり、その状態にあることの居心地の悪さが否定されるものへの態度を硬化させて、境界はより厳密になって行くというふうに循環する。所謂悪循環であってそこでは一つのものである現実をなすに至らない分裂した状態が続く。

 少し話の目先を変える。吉田健一の小説の書き方の特徴として冒頭でこれから小説という嘘の世界が始まることを明示しているということが挙げられるが、それはつまり冒頭では嘘と本当の二つの世界があるということであり、しかし話が進んでいくと嘘と本当の区別はなくなって小説の登場人物が実際に存在しているとしても構わないようなまでの存在感を持って例えば窓から雨の町を眺めている。小説は嘘を書くものであり、その嘘が現実と同じだけの力を持って存在するに至ってその小説は成功を収めるということである。

 嘘と本当が分裂した状態から始まって、その二つを区別する必要のない所まで読むものを持って行くのが小説の働きであり、これを絵空ごとと現実、あるいは自分が求める現実と受け入れ難い現実という区別、そして選択の状態から、全てを包含した純一の状態へと導く働きとして見てもいい。この「絵空ごと」でも始めの内は世間の風潮に対する批判と、それとの無関係を守って存在する登場人物の生活というある意味で分裂した状態が見られるが、話が進むのに連れてそれが確かな手応えを持った一つの現実の形へと変わって行く。現実逃避という言い方があるが、我々が現実と認める場所にそこから逃げるのを許すような余地はなくて、自分が受け入れるものとしてそれに対して働きかけた結果がそこに現実を生じる。そして我々はそこで生きるということをする。

 「百鬼の会」は酒を飲んでいてとんでもないことになる話で、「酒宴」もそうだけれど、吉田健一の小説にはそういう話がたくさんあって、それは酔っぱらって幻を見るということであるよりは酒の効果でより明晰になった思考が書かれているように見える。


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