これから小説を読み始めるという時には何か心構えが必要である場合もある。小説において何らかの前提が作者と読者の間で共有されているとすれば、それは大抵小説というものに対するほとんど根拠のない思いこみ、あるいは固定した観念であって、その約束事を知らないものには何がなんだか解らなくなることもある。最もそういう思いこみは学校の国語の時間に養われてものとも考えられるので、誰にとっても小説と言ったら浮かんで来るイメージがあるのかも知れない。それで小説を書くのでも読むのでも、これから小説を書く、あるいは読み始めるのだという意識があれば、その小説のイメージに拘束さて、凄く窮屈な思いをすることになる。その思いこみをどうにかして取り払ってから本を読んだ方がよくても下らないほとんど作者の思いこみだけで出来上がった小説も多くて、そういうのが名作とか文学とかいうことで認められていればそれに感動するもの、あるいはその振りをするものも出て来る。

 この女の名前が民子というのだったことにする。別に理由があることではなくて、そのことで序でに言うならばこの話そのものが何の表向きの根拠もなしにただ頭に浮かんだものなので従ってこれは或いは本当のことを書いているのかも知れない。尤も本当ということの意味も色々ある。

 この小説の始めではこのように理由もなく名前を付けられた主人公がそういうふうに理由を持たないような登場の仕方をする。例えば我々の前に一人の人間が現れる場合に、その人間が特定のある一人であることに理由はなくてその意味では任意の一人なので根拠はなく、それで初めてあった人間というのは他の人間と区別する積極的な根拠を見つけることは出来ない。それが小説を読み始めて登場してくる一人の人間なのでも同じことであり、読んでいくうちに、その人間とつきあいが出来始める状態が生じる。そしてあるいはこの小説の主人公の民子が大使館のパーティーに出掛ければ、我々は民子がそこで伯爵夫人と呼ばれていることを知る。

 だからといってその人間の何が解るという訳でもない。それは伯爵夫人ということを根拠にしてその人間がその人間であるのではなくて、伯爵夫人であることによって保障される金銭なり身分なりがあってそれなりに自由な生活が出来るか、またはそれが邪魔になって不自由な思いをしていることも考えられる。そして吉田健一の小説の登場人物達がそういう状態の中で見せるものは、邪魔があればそれを避けて、自分の生活を行おうとする意志である。その前提として大抵の場合彼らはお金に困っているようなことはない設定になっていて、それは金を稼がなければならなかったり今の身分から成り上がらなければならないということに邪魔されなければ、それだけ自由に生活をすることができる訳で、自由に生活することを妨げるものはなければないに越したことはないから、小説ではそういう設定に人物を置くことも出来る。それでこの小説に出てくる人間は皆自由に生活をするという人間が人間であるために必要なことをしていて、だからここに描かれる人付き合いや恋愛というのは、人間らしい生活があることの延長であるよりもその生活そのものとして描かれている。

 この生活の自由というのは生活の問題であるよりもそれぞれの人間の問題であると言える。だから金があるとかないとかいうことは基本的に関係がないとも考えられるのでそれは条件に過ぎず、その条件に対処して行うのが生活である。対処すること自体が本質としてあり、要するに生活の条件の改善が生活の改善には必ずしも繋がらなくて、それは改善するものであるよりは人間が生きているということから生じる一つの状態で、この状態である所の生活とその人間を区別して考えることは出来ない。その人間というものが現実に現されて取る形が生活であり、人間がそれぞれに人間として生活をして付き合いをしている時に取る形を見るのならば、例えば民子と女中の丹波さんのこういうやり取りがある。

 民子が降りて来たことがどうして解るのか丹波さんが自分の下に使っている女中の一人が民子の部屋を片付けに二階へ上がって行って丹波さんが辛口のチンザノを注いだグラスを盆に載せて現れた。どうして解るかであるよりも二人はあまりに長く一緒に暮らして来たのでそのあいだに人間以外の動物の勘に似たものが働いて民子はその毎日の生活をしている限りではベルを押したり丹波さんを探しに行ったりする必要がなかった。

 生活が人間に与えられた条件に対処することが取る形であるならば、他の人間に対処すること、つまり他の人間との交渉はその根幹をなし、またそれぞれの人間は人間と総称するに足りるだけのものを共有しているので、生活をしているのが長くなれば相手のすることにも同じ人間として想像が付くということがある。そういう人間同士の付き合いが描かれているのが、この小説だけではなく吉田健一のすべての小説に言えることであって、吉田健一の小説には不愉快な人間というのが出て来ない。それは不愉快な思いをするのは人間の生活にとって必要のないことで、人間にとって必要のないことを小説にしても要するに不愉快ということに尽きて、それで何が面白いのか。また不愉快ということがあったとしてもそれは対処する条件に過ぎず、描かれるのは対処すること自体であって、そこにまで条件の不愉快を及ぼす必要はない。そして他にすることはいくらでもある。

「民子さんとおっしゃるんですか、」と中川はそれまで自分が考えている積りでいたこととそれがどういう関係があるのか解らずに聞いた。
「ええ、」と民子は答えてそういう時にはいと丁寧な言葉遣いをする為でなしにただ習慣から返事をするのは戦後に東京に出て来た人間である。その次に民子が、
「家に寄ってお出でになりませんか、」と言ったのもそれまで民子の頭にあった筈のことと何の繋がりもないことだった。併し言った後でそれがどういう意味を持つのか民子にも中川にも解って中川は、
「そうさせて戴きます、」と答えた。

 ここまで来ると、最初に理由もなく付けられた民子という名前が確実に一人の人間を現すものとして受けとめることが出来る所にまで至っていて、そこに現れるのは生活であり、小説はこのようにして人間とその生活を描く。


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