本屋で文庫の棚を眺めていたら淡い色使いのカバーが目を引く一群があって、その講談社文芸文庫というのに収録されている吉田健一の本を全部まとめて買ってやろうかと思ったのだけれど、この文庫が文庫本のくせに値段が高くて生意気なのは文芸とかいって気取っているからとしか思えない。それで、買って読んだだけでは元を取ったことにならないような気がするので感想文を書く。

 文庫本だから解説がついていてそこにはこんなことが書いてある。

 空間に生じることは登場人物にもいえることであって、この小説に現れる男も女も誰もが強い既視感を発散させている。寺院の女性は山奥で垣間見た女性であると同時に、絵画に描いた女性でもある。ボルヘス的とも形容したくなるこの強烈な同一律が実のところ『金沢』を支えている原理に他ならず、それは文中にときおり出現する、スペインのゴンゴリズム(パロック詩法のひとつで単語の寓意的な置換を特徴とする)とも無関係ではない。時間の廃絶が説かれ、空間の超越が論じられる。結果として生じるのはあらゆる時空と人物、さらに言語と喩とが代替と交換を許す、規範的な宇宙である。

 ボルヘスはちょっとしか読んだことはないし、スペインのゴンゴリズムなんて聞いたことがないけれど、吉田健一の小説を読んでいれば、ここで言われているのがどういうことであるのかを理解することが出来る。「酒宴」では語り手が偶然知り合った灘の酒造会社の技師に連れられて酒造工場を見学して、それから神戸の料理屋の二階で宴会が始まって盃のやりとりをするのだけれど、その途中でとんでもないことになる。

毎日、一升や二升は平らげている連中なのだから当たり前で、それを通り越して何か、今見てきたばかりの工場の四十石入りや七十石入りのタンクが盃のやり取りをしている所を思わせるものがあった。事実、廻りで酒を飲んでいるのはその四十石入りや七十石入りのタンクなのだった。

 ここでは一緒に酒を飲んでいる人たちの様子が酒造工場のタンクを思わせるというのが比喩であるだけではなく事実になってしまうわけで、事実というのが言葉の積み重ねであるならば、比喩が比喩であるのに止まらないだけの言葉としての力を持つようになることよってそこで事実が生じるまでに至る。その言葉の働きが時間や空間の中で順を追って生じるのではなくて言葉が作用するのに従ってその中を自由に行き来するものとしての事実を作る。少し的が外れているかも知れないが、同じような事態として思い浮かぶのは『失われた時を求めて』で話者が彼の恋人のアルベルチーヌに対して彼女は同性愛の快楽に溺れているのではないかという疑惑をかけ続けて、その疑惑が事実であったことは彼女が死んだ後に確認されるのだけれど、読者の感覚としては事実が最初にあってそのための疑惑であるよりは、恋人に対する嫉妬が疑惑という形になって、その疑惑が言葉として積み重ねられることによって遂には事実になるという経過のように見えるということがある。ここでは実際の時間の順序は意味をなさなくてただ言葉が重ねられていくのに従って事実が生じていくように見える。

 隣にいる女が以前に会ったことがあるように思えたり絵画に描かれているように思えたりするというのが思えるだけに止まらずに事実であるというがこの小説の基調としてある。そしてそれは言葉の問題であって、言葉の自由な働きが時間や空間の規則に縛られることなく時空を行きつ戻りつしながら突き抜けていって、だから時空を越えて同じであるということが起こる。このような自由な働きをする言葉というものに読者は文章を読むことの楽しさを感じるのだと思う。


<目次> < 『絵空ごと/百鬼の会』>