前ので吉田健一が英文学者であるということを否定していたと書いたけれど、それを説明するものとして、この本に収録されている「オスカア・ワイルド」で「日本の英文学界に限らず」と書く時に「日本の英文学界のことは実はよく解らないのであるが」と注釈をつけていることを挙げることが出来る。英国の文学が解るというのは、当たり前のことだけれど英文学界のことが解るのとは違うわけで、別に英文学者でなくても言葉が解ってそれを読むことができれば文学が解ることになって、だから英国の文学について何か書くのに必要なのは、読むことができてそれで何かを書くということができればそれでいいわけで、英文学者である必要はないということである。

 日本人には英文学は解らないと夏目漱石が言ったことになっているが、その解るとか解らないとかいうのは何を意味しているのか考える必要があって、英国に限らず文学が形をなすのにはその背景に止まらず前面にあるものさえもその国独自の形態を取るとのを免れない。しかし国によって違う言葉や人間の生活、あるいは風土や気候があるのは確かでも、言葉や人間というものが日本でも英国でもフランスでもその他どこの国でも根底においては同じ言葉や人間なのであって、日本語が英語になってもそれが言葉であることには変わりはしないし、日本でも英国でもそこに住んでいるのが人間でなくなるということもない。その部分においては解ると言うことに国籍の違いはないと見られるので、それが理解できないとうのは何も解らないということを意味し、しかしそれを解るのに至るまでの方法は例えば演繹か帰納のどちらかでなければいけないということもなくて、国ごとの文学の特徴と文学自体の関係を特に考えなくてもその特徴を語ることが文学を語ることなのでもあるとも言える。

 現代のということに特に限定しなくても、地味だということが英国の文学の特徴である。そしてこれは、非情に誤解され易い言い方であることも承知で書いているのである。

 というのが「今日の英国の文学」の冒頭であり、そしてオーウェルの「一九八四年」を紹介してそれに続けて今引用した部分をこのように説明している。

 これは要するに、英国の現代文学が主義や思想というものを扱うにしても、現実とその現実の中で生きている人間そのものから、決して眼を離そうとはしないということを意味している。

 この現実とか人間とかいうことは吉田健一に一貫していることで「イィヴリン・ウォオの近作に就て」では

 社会という時と同様に、国とは要するにそこに生活する人間のことであり、例えば「ブライヅヘッド再訪」には英国が描けているということはそこに描かれている人物が我々の想像力を支配するに足るものであるということなのである。

 という文章を見つけることが出来る。同じくウォーについて書かれた「イィヴリン・ウォオ−人と生涯−」では彼の自叙伝や小説などをもとにしてその生涯を綴っていくのに、作家の正常な人間としての生活があるから作品があるのだということを繰り返し述べている。例えばボードレールが幼いころに母親が再婚したために心に傷を負ったとか、ドストエフスキーが死刑台の一歩手前で死刑執行を免れたとかいうことが、彼らの傑作に異常さとして影響を与えているという説を、

 これは文学が異常なものであるという前提があってのことで、そのような前提を認めることはできない。ドストエフスキイも、ボオドレエルも、何れの場合にもその生涯に付きまとった異常に打克って文学の仕事をした点が偉大なのである

 として退ける。吉田健一はフロイトの分析のようなものをまともなこととは思っていなかったようで、これに続いてこう書いている。

 併し正常であり、普通であるのは凡庸であるのと同じことなのだという考えもある。これは可愛い子には苦労をさせるというのと同じ種類のことだろうか。併し別な見方をすることも出来るので、人間でなくて機械でさえも、それが精密なものであればある程安定した状態におかれていなければその働きに狂いが生じる。勿論、人間の精神は機械ではないから遥かに大きな衝撃に堪えることが出来るが、そういう衝撃がない方がいいのは機械の場合と変わらなくて、それが刺戟になるというのは雑な細工の時計を叩くと動き出すようなものである。我々の精神が衝撃に堪えるから、それがあった方がいいということにはならない。又もし精神の不安などというものがそういう外部からの働きかけで生じると思うものがあるならば、それは本当の精神の不安というものを知らないので、後何分かで死ぬのだと言われなくても、或いはまだ子供のころに母親が再婚しなくても精神はそれ自体の作用で不安になる時にはなる。

 ここで言われているのは精神が正常でなければならないということであるよりも、その正常であることが外部から与えられる衝撃とは関係なく成立するものだということで、精神の正常だけではなくてその不安も外部からの刺激を原因にするものではない。精神自体の働きが精神を不安に導く余地を残している時にその正常を維持することも精神の働きに掛かっている。つまり精神が働く限り精神は不安の方角へと向かうことを免れなくて、その中で絶えず正常へと戻す運動が行われてそれが力を持ち、そしてそれが外部の異常に打ち克つ力になるのならばそれは精神の不安を根底に置いた、あるいは不安の領域へと進む余地を切り開くとともにそれに対抗するだけの力を持った精神がそこにあることの証明になる。その先には文学の仕事というのもある。


<目次> <『思い出すままに』>