学生(2)

 よく学生に「本当にこの本読みましたか」などと聞かれるのだが引用している
のだから読んだというのは字の通り疑いのないことで、また自分では一応のとこ
ろ筋も通しているのでなぜそんな質問が出るのかといぶかしく思うことがあって
、これはたぶん「〜の思想」とか「〜の真理」とかいうものが巻物としてあり赤
線をひいて奥義を会得できる話だとか、クラッシックやビートルズなどの一部の
表題音楽のように書物が一つの感情で通り一辺倒で鑑賞できるはずのものだと思
っているから懲りずに口をついでそういう言葉が出るはずで、これでは学生とい
うのは明治末期から「〜神髄」というものから一歩も外に出ていないという批判
があってもしかたがない。
 「〜神髄」でなくとも小林秀雄が始めたとされる近代の批評の学術的なものと
抒情的なものの勘違いをしたり、例えば日本の批評で有名な源氏物語の「ものの
あわれ」という言葉には抒情的な部分と学術的な部分があり、その切り分けに酷
い勘違いがあるように感ずる。
 鑑賞というものも原理というものも自分が歩いて見えた風景と別の人間が歩い
て見えた風景をかかった時間に等しく感じかんがえればいいことであって、その
ために格別の時間をかける必要もなければ一睡の夢であるからといって変にひね
て軽蔑することもないので学問のそういった案配の分からない学生は詩人にも笑
われる。
 本来あるべき思索とか論旨というものを、難解な語彙による前衛的な叙情詩だ
と思っている学生が多く、こういった学生は思索と神髄の区別がないので、本当
は詩を書いていればいい才能が多く誤解されてアカデミズムというまた単に難解
な語彙による前衛的な即興詩人の集団が巷に闊歩しているということを知らない
。
 ある本を読んだとか網羅するというのは知的財産だとか知識の所有ということ
とは関係がないので、そこで起こっているのはある種の抒情の深化だったり抒情
の否定であったりするので、最近の学生が多く人名や事物の名称を知っているに
もかかわらずものを知らないと言われるのは、こういった本来抒情詩人になるべ
き多くの才能が、自己を獲得するにあたって誤った言葉の獲得をしているためで
あると思われる。
 思うに詩人のことをまるで定職を持たない自由人や芸能人に思う傾向がまだ学
生の中にあって、こういう場合の詩人はやはり単に難解な学術用語と単に難解な
だけの血の通っていない論理を振りかざす人間というのが何か定職ももらずにふ
らふらと歩き回っているという図を考えるらしいが定職を持たない自由人や芸能
人というものには詩に立ち現れる自由というものを知らないことが多く、先ほど
の「〜神髄」から一歩も出ていない話とならべると、まずい詩作を続け、まずい
小説を書く批評家を愛した小林秀雄が行った事もまるで水泡に帰するかのごとく
である。
 学生や学術というものが行う学問と人間が人間として行う学ぶということがら
は本来別個のものでありその功績も意義も等しく、本来より自由に思索し批評す
る人間というものが、なにか縮こまって箱の中に入り郷土史家などを始めその一
生を終えたり、本来学術に留まるべき郷土史家もいない学問というのには啓蒙家
が多く学問というのが持つ旨みを双方がとり逃がしている。
 また自分の知識のなさや低さをなげき、切磋琢磨しようというある種の考え方
の方向は、やはり知的財産だとか知識の枯渇とか、精神の貧しさという問題とは
関係がないはずなので、希に学生から聞かれる難解な語を単に多く知る者や己の
信念によって独自の理論や境地をうち立てた人間を天才という言葉に何か異様な
思い入れがるように思われる。ここで吐かれる忌憚はやはり単に本来詩人の初心
者が持つべきもので、そう考えると批評だとか学者とかいう人間の卵を見わたし
ても、今日の詩人口というのは少ないということはあっても、あふれかえってい
るということがない。
 今日学生は詩をあまり読まなくなったと言われるが、そのために心の中で詩は
つえねにさえずっており、または歯ぎしりをしているので、これはうるさいぐら
いに聞こえ、それでもしようの無い人間は他人と口論しだしたり「本当にこの本
読みましたか」などと無駄な口を叩いて穀を潰している。こういうはぎしりをし
、恥ずかしくてのたうちまわるような心の情熱というのは間には必要不可欠なも
のであると同時に燃料で言えば石炭であってそのまま燃やしても煙が出て目にし
みたり、くすぶっているだけであって、学術的な推進力を得るには学術的なピス
トンと少量の水が必要になる。
 今日の学生は詩をあまり読まないというのは、ハートに火もつけられないとい
うということではなくて、詩的なものの抽出、原理原則の動的な参照、ハートに
火のついた状態を言うものを客観的にしらなすぎて、あるものは客観的に知れば
火が小さくなり情熱は失われると思っているが、これでは炎はくすぶるばかりで
あろう。
 このような考え方に対するあやまった風潮から脱するには一遍でも多くの詩作
をしなければ、しっかりと学問にうちこんでいる学生に申し訳がたたない。また
詩作の情熱が感じられず、向こう一辺倒に知識をつめこもうとする者もいるが、
こういった人間には俳句をすすめる。また無駄に図書に書き込みなどしたり、借
りたまま本を返さないニセ学生なども例にもれず詩作か俳句をはじめるべきでこ
れは「本当にこの本読みましたか」という質問をしないような情操教育にもなな
る。
 ただしそれが詩的な言語の獲得であったとしても、古書店などで多くの本を購
入することは古書店の流通を活性化させるので唯一今日の学生が役に立つ事業で
あって、またそのさには卒業後は図書館に蔵書を寄贈するのを心得るのはもちろ
んのこと、思い出があったとしても読まなくなった本はなんとしても図書館に寄
贈するべきではなかろうか。

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