軽評論-3


 小林秀雄はもともとは白樺派で白樺派が力をいれていたのは小説だとか戯曲で
はなくて一番の功労はその抒情と詩であるから、例えば高村光太郎などは白樺派
の影響を受けていて、ときどき高村光太郎にでてくるまずさなんかは白樺派の影
響と思われる。
 それで当然小林秀雄が志賀直哉を誉める手さばきも「なんともしれん抒情だか
抒情じゃないんだかわからん文体」とかいう詩みたいな褒め方になって、小説の
文章に上手下手がないのと同様に詩の叙情にも上手下手がないのであってもその
二つは同じことではないので、この「なんともしれん文体」というのは小説の上
手下手を言う時に一般に使われるものとは違っている。志賀直哉の例えば蜂が死
にそうになってふるえているとかいう私情をはさまない表現を旨いとするご時世
で反感をおぼえながら育った作家として三島由紀夫がいて、例えば今日三島由紀
夫のものを読んで我々の一人として面白いだとかつまらないだとか感激だマイナ
ス150点だといったふうな、そういうことの片鱗すら伺えないのは、小林秀雄
のやった詩的な叙情による小説の理解というものが我々の体に染み着いているた
めに三島由紀夫が書いたようなものを小説と認める手掛かりが得られないからと
も言える。
 小林秀雄は自分で詩も書くし出発点は志賀直哉の散文だがランボーとか中原中
也の友達とかいう様々な分量をポンドきっかり計ったとすると、つりあうのは宮
沢賢治みたいな宗教家が、べつに文学だとか科学だとかいうものはたんなる媒介
であって、その媒介によって何ともいい知れない「この存在」とかいうようなも
のを表したいという欲望につながるだろうし、志賀直哉ならそこの部分の欲望は
若い性欲と健全な肉体とあとは快不快という単純なものに帰依する。
 小林秀雄のやり口として宮沢賢治だったら信仰があって信仰に直接にはつなが
らないんだけれども「この存在」というもののなんともしれないものを伝える実
験の部分が、「なんとか論」だとか「なんとかについて」という批評文になっ
て、これが何を生み出すかと言えばとある文学理論や技術ではなくて、モーツア
ルトならモーツアルトという言葉が醸し出す詩的な抒情でありうる。

 科学の進歩がその成果としての産業の発展による経済的な安定のもとで一つの
方法として確立した物事の本質を複数の視点の間に同時に設定してそれでも分裂
が起こらないような拘束のなすがままに単純作業を繰り返すというのがあって、
例えば目の前で起こっていることの仕組みを解明したらそれを応用して次の成果
をあげ、さらに大きな成果をあげていくうちに限界に達したら次の仕組みが待っ
ている。ここでは単純作業に打ち込むことを保証する仕組みについて新しいとい
うことが一つの仕組みにすぎないために尽きるということがなくて、実際にそれ
は人間にそれまでに経験したことのない拘束をもたらした。自分が誰であるのか
ということが解らなくても仕事が出来てその成果は単純であっても新しさの仕組
みによって注目されることが保証されていたし、生活の基盤がそれで成り立つよ
うになると文学というような方面にもその方法を応用できるという考えが広まる
が、もともとが目の前にあるものがどういう仕組みをしているのかを解明してそ
の反射によって成果をあげるという肉体的な作業によって成り立つものによって
文学に向かうとどうなるのか。ラブレーでも誰でもいいがそういうものを読んだ
ときに一般に与える印象とは違って文学には秩序が必要なので、ただの反射によ
って何が出来るかというと結局は何をしたらいいのか解らなくなる。文学に秩序
があることとその秩序を得ることが困難であることが同時に解ったのであって、
ここで無数のそれぞれに関係を持たない肉体の反応をそういうものとしてつぶさ
に観察し、何かが浮かんで来ないかと見つめてみるのが「この存在」ということ
になるので、その何とも知れないものはそこで生成された訳でもないし、かとい
って始めからあったものという訳でもない。

 それで小林秀雄は本居宣長をもってきて源氏物語はもののあわれというキーワ
ードで読み給えというようなものが今日俺の言う抒情であるとするので、真っ向
からそれに対峙しようとしてまたそれと同時に文学理論や技術といったものを相
手にするのには苦労をする。それでその苦労は体力だけでなく精神力も使い果た
すこともあるので、どうしてもそういうことをいう文学者は短命になってしま
う。
 長生きをしたければ体力だけでたくさんの自作品を書いたり延々研究と申し述
べて一字一句詠んだりすれば精神をすりへらさないので宜しいということになっ
て、なかなか本来簡単であったようなものの簡単さが失われるという風潮はあ
る。そういった風潮をこれまためんどうくさいのでエピゴーネンといったソフト
な抒情でまるめこんで、そういったある種の語感をもった言葉の累積さえあれば
アカデミックであったりインテリであったりとふんだりする傾向がある。アカデ
ミックな抒情の累積、抒情が抒情によって表されており、またかつその理解も抒
情によってなされるのがアカデミックなるものという誤解が起こっていて、その
誤解がジャーナリズムによって蔓延していて、仕組みとしては批評が正しく働い
ているようで、めいめい独自性をもって独自の読み方をする、という同じことを
繰り返す状況が見て取れて実際はどうもおかしいという点は否めない。
 そういうふうに形成されているキーワードの累積、俺達がここでいうところの
抒情は、対象への敬意でもあれば侮辱にもなり、これは言葉というものが本来持
つ機能というよりは詩的な抒情の意味なので、敬意とか侮辱とかいう言葉がでて
くることじたい、どこかで価値の倒置が起こっていると思われる。
 価値の転倒というもの、本来の価値、あるいは短命になってしまう文学者の言
葉というようなことに実感の持てない場合には、ある対象への角度というものを
考えてみるといいかもしれない。真っ向から対するといったときに対象に面する
角度は丁度直角になり、普通の人間はななめ四十五度くらいを理想とするので、
その四十五度の切り口はたとえば対象を笑ったとしてもその裏で自分の空しさや
悲しさが出てくる。そして角度があるので、わざわざ向こう岸に行かなくても距
離を算出することができるので、角度がついていることによってだいたいの物事
の到達への予測がつく。直角に対する場合には実際の距離を歩かなければ到達も
判らないので延々とその道をひたすら歩いていくことになり、何をしているかも
なかなか計りがたく、もっぱら価値の転倒もなければ短命だとか長寿だとかいう
こともない。あるのは実際の時間と言うことになり、それは外からは計りがた
い。
 それでマルクスの資本論をねっころがりながらよんだとかいう毒にも薬にもな
らないような度胸話ではなくて、そういう大層な仕事は大層なように読んで、大
層ではないが本を閉じたくなるということがない坂口安吾の堕落論だとか、小林
秀雄の批評評論というものを軽批評というジャンル分けにすればよくて、そのと
きの基準としてはその書いている人の質や書いているものの質で見るのではなく
て、実際に書くのに書いた時間が一時間以内なら詩で、それより一ヶ月以内なら
ば軽評論、それより時間がかかるものはいなかる利用があろうとも大抵小説で、
五十年以上かかるものを論とする基準にすればどうだろうか。そうしたとき今書
かれているものは一時間を丁度一分程度こえるものなので、軽評論のなかでもよ
り軽いものだということが伺える。

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