軽評論(4)

 小林秀雄はもともとは白樺派で白樺派が力をいれていたのは小説だとか戯曲で
はなくて一番の功労はその抒情と詩であるから、今日では多くの人が詩人である
という認識をしていて、批評家というのは詩を詩によって評するものだという認
識が今日益々深まっている。
 それで当然小林秀雄が先輩である白樺派の志賀直哉を誉める手さばきも「なん
ともしれん抒情だか抒情じゃないんだかわからん文体」とかいう詩みたいな褒め
方になっていて、この「なんともしれん文体」というのは小説の上手下手を言う
時に一般に使われるものとは違っていおり、こういった表現を上手下手を言う評
価として読むと「なんともしれない文体」といものが小説もしくは私小説という
表現の真骨頂をなしているということになるが、本来真骨頂というのは脳髄にあ
るのでそうそう姿を現していると血も出るし危険が伴う。
 志賀直哉の例えば蜂が死にそうになってふるえているとかいう私情をはさまな
い表現を旨いとするご時世で反感をおぼえながら育った作家として三島由紀夫が
いて、三島由紀夫の小説をを読んで今日俺達の誰一人として面白いだとかつまら
ないだとか感激だマイナス150点だといったふうな、そういうことの片鱗すら
伺えないのは、小林秀雄のやった詩的な叙情による小説の理解というものが我々
の手や体に染み着いているために三島由紀夫が書いたようなものを小説と認める
手掛かりが得られないからとも憶測はできるし、確かに小林秀雄は自分で詩も書
き出発点は志賀直哉の散文だがランボーとか中原中也の友達とかいう様々な分量
をポンドきっかり計ったとすると、つりあうのは宮沢賢治みたいな宗教家が、べ
つに文学だとか科学だとかいうものはたんなる媒介であって、その媒介によって
何ともいい知れない「この存在」とかいうようなものを表したいという欲望につ
ながるだろうし、志賀直哉ならそこの部分の欲望は若い性欲と健全な肉体とあと
は快不快という単純なものに帰依するが、三島由紀夫以外そういった単純なもの
に帰依するつもりは誰にもなかった。
 或いは信仰ということや自意識ということを聞いて「この存在」というものの
なんともしれないものを伝える実験の部分が、「なんとか論」だとか「なんとか
について」という批評文になって、これが何を生み出すかと言えばとある文学理
論や技術ではなくて、モーツアルトならモーツアルトという言葉が醸し出す詩的
な抒情でありうるとおおくの人間が仮定するが、信心というものも自意識という
ものも、その実際に流れていく時間を考えたときには両手をあげて信仰バンザイ
時間をとまれと言うことは出来ないし、腹でも切らない限り時間は等しく流れて
行き、そもそも時間を時間と名づけた科学がそれを許さない。

 科学の進歩がその成果としての産業の発展による経済的な安定のもとで一つの
方法として確立した物事の本質を複数の視点の間に同時に設定してそれでも分裂
が起こらないような拘束のなすがままに単純作業を繰り返すというのがあって、
例えば目の前で起こっていることの仕組みを解明したらそれを応用して次の成果
をあげ、さらに大きな成果をあげていくうちに限界に達したら次の仕組みが待っ
ている。ここでは単純作業に打ち込むことを保証する仕組みについて新しいとい
うことが一つの仕組みにすぎないために尽きるということがなくて、実際にそれ
は人間にそれまでに経験したことのない拘束をもたらした。自分が誰であるのか
ということが解らなくても仕事が出来てその成果は単純であっても新しさの仕組
みによって注目されることが保証されていたし、生活の基盤がそれで成り立つよ
うになると文学というような方面にもその方法を応用できるという考えが広まる
が、もともとが目の前にあるものがどういう仕組みをしているのかを解明してそ
の反射によって成果をあげるという肉体的な作業によって成り立つものによって
文学に向かうとどうなるのか。ラブレーでも誰でもいいがそういうものを読んだ
ときに一般に与える印象とは違って文学には秩序が必要なので、ただの反射によ
って何が出来るかというと結局は何をしたらいいのか解らなくなる。文学に秩序
があることとその秩序を得ることが困難であることが同時に解ったのであって、
ここで無数のそれぞれに関係を持たない肉体の反応をそういうものとしてつぶさ
に観察し、何かが浮かんで来ないかと見つめてみるのが「この存在」ということ
になるので、その何とも知れないものはそこで生成された訳でもないし、かとい
って始めからあったものという訳でもない。
 それで小林秀雄ならば本居宣長をもってきて本居宣長の考えたようにその道の
りをかかったぶんだけ歩んでいくので、誰しもが心に抱いている信心というのを
小林秀雄に対して見たときには自意識とか本居宣長ならばもののあわれであると
いうわけでなくて、自意識とかそういった言葉は後世のの人間がでっちあげたも
ので、小林秀雄ならば歩いら歩いたぶんだけ見えた景色の中の単なる一風景にす
ぎないことがわかり、ここでいう信心とはただ歩くこと以外に積極的な理由も利
点もありはしない。歩いて歩いただけ見えた景色というのは、やはり同じように
歩いた人間にしか分からないので、やはり生成されたわけでなければ始めからあ
ったというわけではない。そして歩いて歩ききったというのは傍目にはわからな
いので歩く体力の無い人間が見るとその文学者はなにをいくら書いたとしてもど
うも短命に見える。

 ならば長生きをしたければ体力だけでたくさんの自作品を書いたり延々研究と
申し述べて一字一句詠んだりすれば精神をすりへらさないので宜しいということ
になって、なかなか本来簡単であったようなものの簡単さが失われるという風潮
はある。これはつまりかかる時間というのは誰にも等しく流れるので、例えば目
を凝らしあるものの見方を微細にしていってもそのぶん時間の流れが遅くなるの
でいらぬ苦労をして今度は体力がすり減っていき、一方をひっぱれは一方が狭く
なる
。
 かかればかかるだけの時間をかけていって一歩一歩踏みしめるでもなく歩き辺
りを見渡せば花が咲いているが、曰く難いその風景を「もののあわれ」と呼んだ
としてもやはり理解はできず、或いはたとえ一歩でも同じ歩幅同じ時間でもって
見たある種の景色に似たようなものを感じるかもしれず、それは一睡の夢だとか
世界の凍る一瞬とかいうものではなくて、血の通った鼓動の聞こえるある種のは
やさであり、それを一瞬に束ねようとする到達点というのにはどこかで価値の転
倒というものが起きているのかもしれない。

 価値の転倒というもの、本来の価値、あるいは短命見える文学者の言葉という
ようなことに実感の持てない場合には、ある対象への角度というものを考えてみ
るといいかもしれない。真っ向から対するといったときに対象に面する角度は丁
度垂直になり、普通の人間はななめ四十五度くらいを理想とするので、その四十
五度の切り口はたとえば対象を笑ったとしてもその裏で自分の空しさや悲しさが
出てくる。そして角度があるので、わざわざ向こう岸に行かなくても距離を算出
することができるので、角度がついていることによってだいたいの物事の到達へ
の予測がつく。直角に対する場合には実際の距離を歩かなければ到達も判らない
ので延々とその道をひたすら歩いていくことになり、何をしているかもなかなか
計りがたく、もっぱら価値の転倒もなければ短命だとか長寿だとかいうこともな
い。あるのは実際の時間と言うことになり、それは外からは計りがたいが間違い
なく血の通った時間が中では流れている。

 それでマルクスの資本論をねっころがりながらとばしとばし読んだとかいう毒
にも薬にもならないような度胸話ではなくて、そういう大層な仕事は大層なよう
に読んで、大層ではないが本を閉じたくなるということがない坂口安吾の堕落論
だとか、小林秀雄の批評評論というものを軽批評というジャンル分けにすればよ
くて、そのときの基準としてはその書いている人の質や書いているものの質で見
るのではなくて、実際に書くのに書いた時間が一時間以内なら詩で、それより一
ヶ月以内ならば軽評論、それより時間がかかるものはいなかる利用があろうとも
大抵小説で、五十年以上かかるものを論とする基準にすればどうだろうか。そう
したとき今書かれているものは一時間を丁度一分程度こえるものなので、軽評論
のなかでもより軽いものだということが伺える。

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