死んだ前衛-1

 最近てんで前衛という言葉を耳にしなくなったが恐らく筒井康隆が談筆をした
辺りでこの言葉の賑わいが一度完全に失われていると思われる。つまりそれはフ
リージャズやパンクといった言葉の醸し出す賑わいも失われたということで、今
日若干そういった抒情感はオルタナティブという表現に微かに残っていて、それ
以外ではもう固有名詞として共有されていてたとえば若者達の間でブームとなっ
たエヴァンゲリオンという言葉もその正式な継承者であると思われる。

 ブームというのがなにか陰惨なものだというのは、例えばだっこちゃんブーム
とかベビーブームといったものの狂的な賑わいというのを思い出すとよくて、そ
の賑わいと最新流行といったときの熱気とは別のものである。
 流行というのは再現可能なもので、同じ流行であっても再来するということを
言わないが、ブームというものは再現は不可能なもので、同じような現象が起こ
るとそれをさざわざ再来といい、祭りで人が死んでも誰も文句を言わないよう
に、ブームで人が死んでも誰も文句を言わず、流行というもので人が死ぬという
ことがない。
 それがブームにもかかわらず流行を言って、それで人が死んでいるにもかかわ
らず死んでいないという態度を前衛といって、そのさいに行われるのは物事の陰
惨な引用である。俺達はもちろん流行で死ぬということがしたくて、古来粋と言
われた人間の死が陰惨かどうかもはっきりしないのは流行に死んだためだという
ことがある。

 前衛のいかがわしさを現すためにゼンエイとわざわざカタカナで書くといった
風体は純文学作家ならば坂口安吾辺りから始まり、これは当時のエログロナンセ
ンスという新聞記事のコンセプトとも関わりがあり、大正期のこういったコンセ
プトのために政治情勢の混乱のさなかにも情死事件や惨殺事件に多くの記者を派
遣したということもあり、エログロナンセンスといったものがいかに庶民的で庶
民的な売れ行きをみせるかということを現す端的な例となって、かすかに週刊誌
の中などにその姿を今日にまで残している。

 大正期のそういった前衛運動というものは例えば日本のダダイズムという風潮
を生んで、どういうわけかこのダダイズムはやがてプロレタリア文学に移行して
いくという立ち現れ方をして、あるいは吉行エイスケのような前衛詩人はその詩
作生命を20代前半でとりやめて単なる株屋になっている。このダダイズムとい
うものと、例えばフランスに現れたランボーが同じような年代に詩作をとりやめ
探検家になったということには、消極的だが類似点もある。

 ダダイズムや前衛、あるいはエログロナンセンスといった風潮が可能となるに
はある程度の文化的な基盤が必要で、その基盤が忘れ去られたごろに「文学はだ
めだ」とか「俺達には何も残されていない」といったふうな空虚な勘違いが起こ
る。これはたぶん言葉は死にに死にきっているにもかかわらず肉体は生き生きと
しているという現実の状態を、死んだ言葉で表す場合にはとりあえず自分の肉体
や情熱は死んでいると言えばよく、それを初めて言った人間は確かに偉いが、後
にのこされた人間には腐りきった酷い現実が待っていて、そのときにはデカダン
スというのはもはや手遅れの状態になっている。

 例えばくいものは腐りかけが旨いというのはその通りなので、これは言葉でで
きている限り言葉にもあてはまる表現で、また腐った蜜柑はべつの蜜柑を腐らせ
るという表現も言い得て妙で、そのためには新鮮な蜜柑が数多くなければならな
い。こういった言葉を収穫したのは表だっては芥川龍之介であって、これに庶民
的な参照を行ったのは江戸川乱歩であっった。そして白樺派の気安さだけとりだ
して自然主義のお題目をとなえて唸っていればエログロナンセンスという新聞記
事ができあがり、前衛というものに意義があったとされる時代は、新聞が生き生
きとしていた時代ともかさなるとも考えられ、それとともに腐りきったジャーナ
リズムというものが背中合わせで待っている。それで三島由紀夫の時代には寺山
修司がいてこれは最終的に石ノ森章太郎の仮面ライダーというものに帰依する。
そのあとの時代には肉体は軽蔑されていく一途を辿っていちずならばいちずなだ
け評価される筒井康隆に巡る。
 以上のように死んだものの名前さえ様々列挙しておけば前衛の説明になんとな
く折り合いがつくというのが前衛の特徴であり、流行というのはこういったもの
を許さない。
 名前さえ知っていればよいとするとする風潮はそのまま読み書きができれば物
事を理解しているという落胆的な認識につながっていき、リアリズムもダダイズ
ムもそういう共通の素地で感受されるので、結局のところあまり成果がない。前
衛とゼンエイとカタカナで現すことも、要するに一端外来化するという批評的な
抒情の発現であって、異国情緒というのはそのまま国民的なものと手をむすぶの
で、理解できないものは誰にも理解できないという、共通の素地が生まれ、これ
が国民性になる。
 そういう国民性はこんな自分でも読み書きさえできれば前衛というささやかな
家が建つというような感覚を生み、その中にはつつましやかなマイホームという
名の庶民的な躍動があり、自然主義から脈々と続いていく陰惨さが陰をつくって
待っている。

 最近は前衛という言葉もアンダーグラウンドという言葉もひさしく聞かない
し、ジャーナリズムやマスメディアといった言葉も聞かなくなった。そういった
ものを神格化する態度は小林秀雄のいう「化かされた阿呆」であるが、今日それ
ほど文学に化かされて生きるような人種も少なくなってしまっているので、何と
か教に入信してお題目をとなえたほうがしっくりいくという人が多いようだ。そ
ういうわけにもいかないので俺達はマルチメディアとか言う微細な阿呆を見つけ
るということをしなければ面白くない。

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