死んだ前衛-2

 前衛のいかがわしさを現すためにゼンエイとわざわざカタカナで書くといった
風体は純文学作家ならば坂口安吾辺りから始まり、これは当時のエログロナンセ
ンスという新聞記事を賑わせた風潮とも関わりがあって大正期のこういった風潮
は例えば政治情勢の混乱のさなかだろうが情死事件や惨殺事件には普通よりも多
くの記者を派遣し、その風潮に見合った記事づくりに腐心したということもあ
り、エログロナンセンスといったものがいかに庶民的な売れ行きをみせるかとい
うことを現す端的な例となって、かすかに今日では週刊誌の中などにその姿を残
している。しかし今日エログロナンセンスといえばまだいいが前衛というと目も
あてられない風になるのはどういうわけか。
 大正期の前衛運動というものは例えば日本のダダイズムという風潮を生んで、
町でビラを蒔けば前衛ということになって、たとえばフランスで顎髭を生やせば
実存主義者というのとかわりはない。
 どういうわけかこのダダイズムはやがてプロレタリア文学に移行していくとい
う立ち現れ方をするのも庶民的という言葉に関係があって、あるいは吉行エイス
ケのような前衛詩人はその詩作生命を20代前半でとりやめて単なる株屋になっ
ている。このダダイズムというものと、例えばフランスに現れた赤い彗星のラン
ボーが同じような年代に詩作をとりやめ探検家になったということには似通った
ものがあるはずで、馬鹿馬鹿しくなったというのは確かだろうが馬鹿馬鹿しいと
いうのは不可避なことであり、ここではその熱にうかされた状態というものの中
で前衛というのはどういうものか。

 古来ダダイズムや前衛、あるいはエログロナンセンスといった風潮が可能とな
るにはある程度の文化的な基盤が必要で、その基盤が忘れ去られたごろに「文学
はだめだ」とか「俺達には何も残されていない」といったふうな自己の空虚さの
勘違いが起こる。これはたぶん言葉は死にに死にきっているにもかかわらず肉体
は生き生きとしているという現実の状態を、死んだ言葉で表す場合にはとりあえ
ず自分の肉体や情熱は死んでいると言えばよく、それを初めて言った人間は確か
に偉いが、後にのこされた人間には腐りきった酷い現実が待っていて、そのとき
にはデカダンスというのはもはや手遅れの状態になっている。
 例えばくいものは腐りかけが旨いというのはその通りなので、これは言葉でで
きている限り言葉にもあてはまる表現で、また腐った蜜柑はべつの蜜柑を腐らせ
るという表現も言い得て妙で、そのためには新鮮な蜜柑が数多くなければならな
い。こういった言葉を収穫したのは表だっては芥川龍之介であって、これに庶民
的な参照を行ったのは江戸川乱歩であった。それに白樺派の気安さだけとりだし
て自然主義のお題目をとなえて唸っていればエログロナンセンスという新聞記事
ができあがり、前衛というものに意義があったとされる時代は、また新聞が生き
生きとしていた時代ともかさなるとも考えられ、その背後にはもう腐りに腐りき
ったジャーナリズムというものが背中合わせで待っている。それで三島由紀夫の
時代には寺山修司がいて今ではその片鱗すらうかがえないアングラ芸術といった
ものもこれは最終的に石ノ森章太郎の仮面ライダーという、江戸川乱歩の怪奇趣
味と歌舞伎の大見栄をとりいれた子供向けの番組に帰依する。そのあとの時代に
は肉体は軽蔑されていく一途を辿っていちずならばいちずなだけ評価されるとい
う現代になってから生じた勤勉な研究者の一例をかいま見るように筒井康隆に巡
る。
 最近てんで前衛という言葉を耳にしなくなったが恐らく筒井康隆が談筆をした
辺りでこの言葉の賑わいが一度完全に失われていて、つまりそれはフリージャズ
やパンクといった言葉の醸し出すいかがわしい賑わいも失われたということで、
今日若干そういった抒情感はオルタナティブという語感に微かに残っていて、そ
れ以外ではもう固有名詞として共有されていてたとえば若者達の間でブームとな
ったエヴァンゲリオンという言葉もその正式な継承者であると思われる。
 以上のようにいちいち死んだものの名前さえ様々列挙しておけば前衛の説明に
なんとなく折り合いがつくというのが前衛の前衛特徴であり、流行というのはこ
ういった形での外見の追従を許さない。
 名前さえ知っていればよいとする風潮はそのまま読み書きができれば物事を理
解しているという落胆的な認識につながっていき、リアリズムもダダイズムもそ
ういう共通の素地で感受されるので、結局のところあまり成果がない。前衛とゼ
ンエイとカタカナで現すことも、要するに一端外来化するという批評的な抒情の
発現であって、異国情緒というのはそのまま国民的なものと手をむすぶので、理
解できないものは誰にも理解できないという、共通の素地が生まれ、これが国民
性になる。
 そういう国民性はこんな自分でも読み書きさえできれば前衛というささやかな
家が建つというような感覚を生み、その中にはつつましやかなマイホームという
名の庶民的な躍動があり、自然主義から脈々と続いていく陰惨さが陰をつくって
待っていて、その陰惨さにもかかわらず創始者のような人間は体温の低い顔をし
ててっぺんにゆったりとでもなく座っている。
 ブームというのがなにか陰惨なものだというのは、例えばだっこちゃんブーム
とかベビーブームといったものの狂的な賑わいというのを思い出すとよくて、そ
の賑わいというのはたとえば最新流行といったときにある熱気とは別のものであ
る。

 ブームの再来ということは言うけれども流行の再来というのは体をなさなく
て、そこでいう流行というのは過ぎ去って行ってはしまわないで累積していくも
ので、ブームというのは累積していくということをしない。
 ブームというもので例えば祭りで御輿をかついだり牛に追われたりといった人
が潰されて死んだりするのがニュースになってまたブームを賑わすが、流行とい
うもので人が死ぬということを聞かない。
 つまりこれは形式とハレの違いかもしれなくて、ハレというものには実際のと
ころはめをはずすという以外に形式はない。毎年同じことをやろうがやるまいが
それはたんなるしきたりであって毎年祭りが再来するだけで、累積していく形式
のようなものとは趣を異にする。
 ハレというものを形式だと言い張ること、たとえばそれが単なるブームにもか
かわらず流行だと言って、それで大勢の人が死んでいるにもかかわらず死んでい
ないという態度を前衛といって、そのさいに行われるのは単なる物事の陰惨な引
用である。それを形式であると言い張ってしまうと例えば十八番だとか特技だと
かいうこともでてきてしまう。要するにそれは本来なにものもない一過性のもの
に何某か意味を与えようとすることで、多く前衛が前衛として前衛らしく死ぬと
いうことは、こういった陰惨な引用に帰依している。俺達はもちろん流行で死ぬ
ということがしたくて、古来粋と言われた人間の死が陰惨かどうかもはっきりし
ないのは流行に死んだためだということがある。

 最近は前衛という言葉もアンダーグラウンドという言葉もひさしく聞かない
し、ジャーナリズムやマスメディアといった言葉も聞かなくなった。そういった
ものをかつぎあげて神格化する態度を小林秀雄は「化かされた阿呆」と言ってい
る。しかし今日それほど文学に化かされて生きるような人種も少なくなってしま
っているので、何とか教に入信してお題目をとなえたほうがしっくりいくという
人が多いようだ。またしかし入信をして牛に追われとそういうわけにもいかない
ので俺達はマルチメディアとか言う微細な阿呆を見つけるということをしなけれ
ば面白くない。

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