死んだ前衛(3)

 前衛のいかがわしさを現すためにゼンエイとわざわざカタカナで書くといった
風情は純文学作家ならば坂口安吾辺りから始まり、これは当時のエログロナンセ
ンスという新聞記事を賑わせたあの風潮とも関わりがあって大正期のこういった
風潮は例えば政治情勢の混乱のさなかだろうが情死事件や惨殺事件には普通より
も多くの記者を派遣し、その風潮に見合った記事づくりに腐心したということを
考えればどういう庶民的な盛り上がりをみせていたのか分かる。
 大正期の前衛運動というものは例えば日本のダダイズムという風潮を生んで、
その風潮は銀座の町で若者がビラを蒔けばそいつが前衛ということになって、た
とえばフランスで顎髭を生やせば実存主義者というの風情に似ている。ダダイズ
ムの多くはやがてプロレタリア文学に移行していくという立ち現れ方をするのも
庶民的という言葉に関係があって、例えば名前は忘れたがある劇作家は前衛を唱
えていてダダイズム劇のようなものを上演したが金銭的にいきずまって一念発起
してプロレタリア戯曲というものを考え、その決意表明のために頭を坊主にする
がその奇妙さと金銭的な行き詰まりは打開できなかった。
 あるいは吉行エイスケのような前衛詩人は活発だったその詩作生命を20代前
半でとりやめて単なる株屋になっている。このダダイズムというものと、例えば
フランスに現れた赤い彗星のランボーが同じような年代に詩作をとりやめ探検家
になったということには似通ったものがあるはずで、これは馬鹿馬鹿しくなった
のだというのは確かだろうが馬鹿馬鹿しいというのは何事にもまして不可避なこ
とであり、ここではその熱にうかされた状態というものの中での前衛というのは
どういうものか。
 古来ダダイズムや前衛、あるいはエログロナンセンスといった風潮が可能とな
るにはある程度の文化的な基盤が必要で、その基盤が忘れ去られたごろに文学の
退廃や不遇をとなえ自分たちにはもはや何も残されていないし、後には空虚さだ
けが残るだろうというな自己の空虚さの勘違いが起こる。
  これは言葉は死にに死にきっているにもかかわらず肉体は生き生きとしている
という現実の状態を、死んだ言葉で表す場合にはとりあえず自分の肉体や情熱は
死んでいると叫ぶことがあって、後にのこされた人間には退廃的な現実が待って
いて、そのときにの感じは最初にとなえた空虚さとは別種のもの悲しさがある。
 例えばくいものは腐りかけが旨いというのはその通りなので、これは言葉でで
きている限り言葉にもあてはまる表現で、また腐った蜜柑はべつの蜜柑を腐らせ
るという表現も言い得て妙で、そのためには新鮮な蜜柑が数多くなければならな
い。こういった言葉を収穫したのは表だっては芥川龍之介であって、これに庶民
的な参照を行ったのは江戸川乱歩であった。
  例えばエログロナンセンスというのは白樺派の気安さだけとりだし
て自然主義のお題目をとなえて唸っていればエログロナンセンスという新聞記事
ができあがり、前衛というものに意義があったとされる時代は、また新聞が生き
生きとしていた時代ともかさなるとも考えられ、その背後にはもう腐りに腐りき
ったジャーナリズムというものが背中合わせで待っている。それで三島由紀夫の
時代には寺山修司がいて今ではその片鱗すらうかがえないアングラ芸術といった
ものもこれは最終的に仮面ライダーという、江戸川乱歩の怪奇趣味と歌舞伎の大
見栄をとりいれた子供向けの番組に庶民的に帰依する。そのあとの時代には肉体
は軽蔑されていく一途を辿っていちずならばいちずなだけ評価されるという現代
になってから生じた勤勉な研究者の一例をかいま見るように筒井康隆に巡る。
 以上のようにいちいち死んだものの名前さえ様々列挙しておけば前衛の説明に
なんとなく折り合いがつくというのが前衛の前衛的特徴であり、例えば最新流行
というのはこういった形での外見の追従を許さないので、モダンはいつまでもモ
ダンとして残る。
 死んだものたちの名前さえ知っていればよいとする風潮はそのまま読み書きが
できれば物事を理解しているという落胆的な認識につながっていき、リアリズム
もダダイズムもそういう共通の素地で感受されるので、結局のところあまり成果
がない。前衛とゼンエイとカタカナで現すことも、要するに一端外来化するとい
う批評的な抒情の発現であって、異国情緒というのはそのまま国民的なものと手
をむすぶので、理解できないものは誰にも理解できないという、共通の素地が生
まれ、これが国民性になる。
 そういう国民性はこんな自分でも読み書きさえできれば前衛というささやかな
家が建つというような感覚を生み、その中にはつつましやかなマイホームという
名の庶民的な躍動があり、自然主義から脈々と続いていく陰惨さが陰をつくって
待っていて、その陰惨さにもかかわらず創始者のような人間は体温の低い顔をし
ててっぺんにゆったりとでもなく座っている。
 ブームというのがなにか陰惨なものだというのは、例えばだっこちゃんブーム
とかベビーブームといったものの狂的な賑わいというのを思い出すとよくて、そ
の賑わいというのはたとえば最新流行といったときにある熱気とは別のものであ
り、流行にはそういうことはないだろうがブームではそのために必ず多くの死者
が出る。ブームというもので例えば祭りで御輿をかついだり牛に追われたりとい
った人が潰されて死んだりするのがニュースになってまたブームを賑わすが、流
行というもので人が死んで賑わうということを聞かない。

 あるいはブームの再来ということは言うけれども流行の再来というのは体をな
さなくて、そこでいう流行というのは過ぎ去って行ってはしまわないで累積して
いくもので、ブームというのは独自なフォームがないので累積していくというこ
とをしない。
 つまりこれは形式とハレの違いかもしれなくて、ハレというものには実際のと
ころはめをはずすという以外に形式はない。はめをはずす以外に形式がないとい
えばたとえばフリージャズのようなものもあってあるミュージシャンがこれには
相手の演奏を受け答えるという基本的なかたちしかなく、それならばアメリカが
まだ移民してきたばかりのころからあったと言ったが、それに似ている。
毎年同じことをやろうがやるまいがそれはたんなるしきたりであって毎年祭りが
再来するだけで、その中で人は自由ではあるが累積していく形式のようなものと
は趣を異にする。
 ハレというものを形式だと言い張ること、たとえばそれが単なるブームにもか
かわらず流行だと言って、それで大勢の人が死んでいるにもかかわらず死んでい
ないという態度を前衛といって、そのさいに行われるのは単なる物事の陰惨な引
用である。それを形式であると言い張ってしまうと例えば十八番だとか特技だと
かいうこともでてきてしまって、あとは陰惨な溝をただ深めるために人は十八番
をわざとらしくくずしたりくずされたほうもそれに感心したりする。
要するにそれは本来なにものもない一過性のものに何某か意味を与えようとする
ことで、多く前衛が前衛として前衛らしく死ぬということは、こういった陰惨な
引用に帰依している。俺達はもちろん流行で死ぬということがしたくて、古来粋
と言われた人間の死が陰惨かどうかもはっきりしないのは流行に死んだためだと
いうことがある。

 最近は前衛という言葉もアンダーグラウンドという言葉もひさしく聞かない
し、ジャーナリズムやマスメディアといった言葉も聞かなくなった。そういった
ものをかつぎあげて神格化するのを化かされた阿呆と言うとするならば、だがし
かし今日それほど文学に化かされて生きるような人種も少なくなってしまってい
るので、何とか教に入信してお題目をとなえたほうがしっくりいくという人が多
いがまたしかし入信をして牛に追われて死んでしまうというわけにもいかないの
で、俺達はマルチメディアとか言う微細な阿呆を見つけるということをしなけれ
ば面白くない。

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