創刊号-4

 何か書かれたものが作品と呼ばれること、またそれを書いた人間が作者と呼ば
れることについて異義を唱え、作品と作者の従属関係、あるいはいかなる関係を
も否定あるいは統合しようと俺達が試みているとは思わないでもらいたい。
 またはそういったあらゆる従属関係を否定しながらも、その奥に神秘的な独自
の境地を隠し持っているといった統合の見解に対立する立場に俺達がいるわけで
もないことに注意して欲しいので、作品と作者といったものの関係についてここ
で述べるのではない。
 こういった種類の書くことの従属関係は、作者という個人が、一見すると荘厳
なように見える形式とかいうものの動的な対応を理解しないまま諸事情を単にう
わべだけ引用し、素知らぬ顔でものを書いてたものを自己表現という名目でまる
で念仏のような作品を作りだしそれがまた読まれるというような愚劣さの図式を
俺達に見せようとする。俺達はそういったかたちでは書いたもの書かれたものの
関係性について考えない。
 ここにあるのは対象の等割とその対象物の動的な参照である。つまり書くこと
が困難であるとしたらそれは対象に流し込まれた内容の旨みとまずさの問題であ
って、書くことをする本人とかその材料、書かれたものの形式の問題ではない。
 書くとか言葉を発するとかいうことをする時に俺達が直面する困難というのは
書き上がったものの愚劣さではないので、それはもう壁の向こうの出来事である
気がして、そこには心配が及ばない。俺達が心配するのはその壁の向こうにつな
がった書かれたものの累積が、俺達が書こうとするときに実体化しようとする対
象とその壁を挟んでいつでも動的に交換可能であり、また常にそれらの諸対象は
同時にやってきて、それでいて決して両立したり分断できたりすることがないと
いう事である。
 俺達は心配する。例えば泣くことと笑うことを合わせ持つ実体というものはな
いが、泣くことは笑うことなしには成立しない。長調の音階の同じ構成要素によ
って短調はつくられ、またそれは使われていない音の集まりとは趣を異にする。
あるいは悲劇というものがある種の喜劇に裏打ちされなければならないこと、ま
た喜劇もある種の悲劇に裏打ちされなければならないことは、もはや周知の事実
である。
 俺達は心配する。こうやって両立も分断もできないで同時に現れる二つの要素
と実体を俺達は心配する。そして対象となる一つのものを見定めてそれにを言葉
として発しようとしても、その対象は両立しない等価なもうひとつの対象との相
互参照によって成立していることにここで俺達は気が付く。
 ここで実体が成立するとしたらそれは既に比喩でしかない。実際には同時にや
ってくる等価の点を時間的連鎖の軸に従って配列し、関連付を行い、分類して首
尾一貫した実体として定義するというのが比喩ということであって、ここに俺達
は両立しない諸対象の動的参照によって為される書くということが経験する齟齬
を見ない。そこで行われる単なる比喩というものには動的参照と人間が本来持ち
うるすがた、およそ人間のかたちをとらない論理といったものの齟齬による、あ
の心地よい痙攣は起こらない。痙攣は俺達をゆさぶり波をたてるが、多くの完成
された比喩にはその心地よさがどこかへといってしまっている。
 この比喩によって為された実体は全く容易に書くということを実現し、もとも
と諸対象を等割し動的に参照しえた書くということがまたなめらかなあの書くこ
とと書かれるものとの従属関係に引き戻される。俺達がそこで見るのは主体の一
貫性を根拠とした表現行為であり、あるいは総体の規範に従ったその実現であ
る。
 このような比喩による実体の形成を定式化したのが小説と批評であると俺達は
考えている。これらが常に目指していたのは現実の再現であって、社会とか時代
とかを観客の前に広がる舞台として形を整えて再提出し、その舞台の上で行動す
る人物の成立に根拠を与え、またその行動を首尾一貫したものとして示すのに背
景に奥行きを与えて、その連鎖を提示して動機を成立させる。小説とか批評とか
が可能にしたこれらの比喩というものがそれらの本来の性質とどのような関係に
あるのかをここで詳述することはしない。ただそれらの成立と発展が書くことと
読むことの一般への普及と連鎖していて、その過程で時間軸に従った諸対象の連
鎖や主体に対して、あるいは総体に対して行為の根拠を求めることが広く一般に
普及したのは事実である。
 このような事柄に対しては俺達の心配が及ぶ余地がない。俺達はただ物事の関
係性の連鎖を切断し、両立しない相互に参照する等価点という断層の成すうねり
をここで示そうとしている。その断層とうねりは表現を積み重ねることによる困
難さ、あるいは容易さといったものからは趣を異にする。俺達はそれらの諸対象
を動的な相互参照として見るのであって、そのような継起や連鎖、表現を積み重
ねることの困難さ、容易さをそこに見ることはしないし、趣を異にする二つの要
素の間に、あらかじめ消失点を設定することによって、対象を整合性のあるもの
として配置することもしない。
 実体が成立しないままの比喩、つまり動的な参照が行われ二つの両立と等価な
分断が行われた時にこそ、その断層はより洗練された抒情となり我々の周囲に等
置される。その断層に凍結された動的な参照としての行為が書くことであり、書
くこととは相反する性質を持つつねに二種類の比喩からなる。その比喩は恐らく
原初で起こったであろう黙ることと叫ぶことが同時に起こること、泣くことと笑
うことが両立されること、怒りの涙をながすこと、またそれら複数の対象を己の
複数の対象に動的に対応させ引用することであって、それ以外に本来的に書く、
自由に書くこということはもはや成立しないのではないだろうか。
道は示された、あとはモーゼの奇蹟のように言葉の大海を等割せよ。

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