創刊号-5

 何か書かれたものが作品と呼ばれること、またそれを書いた人間が作者と呼
ばれることについて異義を唱え、作品と作者の従属関係、あるいはいかなる関
係をも否定あるいは統合しようと俺達が試みているとは思わないでもらいたい。
また文学が一つの球体であるという主張に対立する立場に俺達がいるわけでも
ないことに注意して欲しいので、俺達は作品と作者といったものの関係につい
てここで述べるのではない。そして諸々の関係の連鎖を否定しつつも未練がま
しくそれらの形式の荘厳に見えるうわべだけを引用し、その引用の奥に自己表
現の神秘的で独自な境地を隠し持つ念仏のようなものが書かれ、そして読まれ
るという愚劣の図式をここで取り上げることもしない。

 俺達の前には対象の等割とその対象物の動的な参照がある。つまり書くこと
が困難であるとしたらそれは対象に流し込まれた内容の旨みとまずさの問題で
あって、書くことをする本人とかその材料、書かれたものの形式の問題ではな
く、そこで出てくる愚劣というのはもう壁の向こうの出来事である気がして、
そこには俺達の心配が及ばない。俺達が心配するのはその壁の向こうにつながっ
た書かれたものの累積が、俺達が書こうとするときに実体化しようとする対象
とその壁を挟んでいつでも動的に交換可能であり、また常にそれらの諸対象は
同時にやってきて、それでいて決して両立せず、分断することも出来ないとい
うことである。

 俺達は心配する。例えば泣くことと笑うことを合わせ持つ実体というものは
ないが、泣くことは笑うことなしには成立しない。長調の音階の同じ構成要素
によって短調はつくられ、またそれは使われていない音の集まりとは趣を異に
する。あるいは悲劇というものがある種の喜劇に裏打ちされなければならない
こと、また喜劇もある種の悲劇に裏打ちされなければならないことは、もはや
周知の事実である。

 俺達は心配する。こうやって両立も分断もできないで同時に現れる二つの要
素と実体を俺達は心配する。そして対象となる一つのものを見定めてそれにを
言葉として発しようとしても、その対象は両立しない等価なもうひとつの対象
との相互参照によって成立していることにここで俺達は気が付く。

 両立も分断もできない実体というのは既に比喩でしかない。実際には同時に
やってくる等価の点を時間的連鎖の軸に従って配列し、関連付を行い、分類し
て首尾一貫した実体として定義するというのが比喩ということであって、そう
なれば両立しない諸対象の動的参照によって為される書くということが経験す
る齟齬は消滅する。そこで行われる単なる比喩というものには動的参照と人間
が本来持ちうるすがた、およそ人間のかたちをとらない論理といったものの齟
齬による、あの心地よい痙攣は起こらない。痙攣は俺達をゆさぶり波をたてる
が、多くの完成された比喩にはその心地よさがどこかへといってしまっている。
そして比喩によって為された実体は全く容易に書くということを実現し、もと
もと諸対象を等割し動的に参照しえた書くということがまたなめらかなあの書
くことと書かれるものとの従属関係に引き戻される。俺達がそこで見るのは主
体の一貫性を根拠とした表現行為、あるいは総体の規範に従ったその実現でし
かない。

 比喩による実体の形成を定式化したのが小説と批評であると俺達は考えてい
る。これらが常に目指していたのは現実の再現であって、社会とか時代とかを
観客の前に広がる舞台として形を整えて再提出し、その舞台の上で行動する人
物の成立に根拠を与え、またその行動を首尾一貫したものとして示すのに背景
に奥行きを与えて、その連鎖を提示して動機を成立させる。小説とか批評とか
が可能にしたこれらの比喩というものがそれらの本来の性質とどのような関係
にあるのかをここで詳述することはしない。ただそれらの成立と発展が書くこ
とと読むことの一般への普及と連鎖していて、その過程で時間軸に従った諸対
象の連鎖や主体に対して、あるいは総体に対して行為の根拠を求めることが広
く一般に普及したのは事実である。

 このような事柄に対しては俺達の心配が及ぶ余地がない。俺達はただ物事の
関係性の連鎖を切断し、両立しない相互に参照する等価点という断層の成すう
ねりをここで示そうとしている。その断層とうねりは表現を積み重ねることに
よる困難さ、あるいは容易さといったものからは趣を異にする。俺達はそれら
の諸対象を動的な相互参照として見るのであって、そのような継起や連鎖、表
現を積み重ねることの困難さ、容易さをそこに見ることはしないし、趣を異に
する二つの要素の間に、あらかじめ消失点を設定することによって、対象を整
合性のあるものとして配置することもしない。

 実体が成立しないままの比喩、つまり動的な参照が行われ二つの両立と等価
な分断が行われた時にこそ、その断層はより洗練された抒情となり我々の周囲
に等置される。その断層に凍結された動的な参照としての行為が書くことであ
り、書くこととは相反する性質を持つつねに二種類の比喩からなる。その比喩
は恐らく原初で起こったであろう黙ることと叫ぶことが同時に起こること、泣
くことと笑うことが両立されること、怒りの涙をながすこと、またそれら複数
の対象を己の複数の対象に動的に対応させ引用することであって、それ以外に
本来的に書く、自由に書くこということはもはや成立しないのではないだろう
か。道は示された、あとはモーゼの奇蹟のように言葉の大海を等割せよ。
<previous> <up>