躓いた訳でもないのに足を挫いた-1
駅で電車を乗り換えようとして階段を降りている時に別に躓いた訳でもないの
になぜだか足を挫いたらしくてひどく痛み、その日一日まともに歩くことが出来
なくて結局友達に会いに行くのは止めにしなければならなくなった。痛む足で何
とか歩いて行く駅の中はただ騒々しくて広告の看板がけばけばしく目を引いても
それが何なのか輪郭がぼやけていてよく解らないまま胃がむかついて来るので、
売店でアイスクリームを買うとそれを持って男はベンチに腰を降ろした。こうい
う時には空が晴れているのかどうかも解らないし、風が吹いてそれが頬に触れて
も風が吹いたということは思わなくて、アイスクリームが蓋の剥したのに薄くひっ
付いているのを見てようやく一息付ける感じがする。多分今は平日の昼間でそう
いう曜日とか一日の間の変遷というものとは大分前から縁が薄くなっているよう
に男は感じて、これは季節ということでも同様である。実際にアイスクリームが
端のほうから溶けて軟らかくなって行くのを見てもそれで気温が高いのかどうか
解らなかったし、そもそもこのアイスクリームの蓋を空けてからどのくらいの時
間が過ぎたのかについても男には確信がなかったし、電車が走って行く音が聞こ
えると自分が恐怖を感じていることに気が付くが、いったいその恐怖をいつから、
何が原因で感じているのかが思い出せない。
喫茶店に入った若い男が髪の長い女の店員に声を掛けて二人は見つめあってし
ばらく時間が過ぎ、次の場面では女の部屋のベッドの上で二人は抱き会い、その
次の場面では朝になって白いシーツの中で二人は眠り、何年か経つうちに結婚式
をあげて家庭を持ってまたしばらく経ち、そのうちにお互いにどうということが
ある訳ではないが自分たちの生活がうまく行っていないのを感じていつしか別々
の暮らしをするようになるということを男は考えてみる。すると女がそれは違っ
て人生というのは単純なもののはずであるということを言う。そう言ってしまう
と女は堰が切れたように声をあげて泣き出して、私が今のような私であるのは結
局のところ私の責任だし、振り返ってみればやりたいことをやりたいようにやっ
て来たことには悔いがなくて、あるいは後悔するのは死んでからでも遅くはなく
て、こんなことをしていれば遅かれ早かれ死んでしまうとあなたは言うけれど子
供の頃から病弱だった私はこんな年になるまで生きているとはとても想像出来な
かったし、ただ家に帰る途中で歩きすぎて駄目になってしまった靴をそのまま履
いているのが嬉しくなって来て自分が畑に生えているキャベツみたいに思えたの
で何だかとても気分がよかった。
そういうキャベツみたいな頭をした女のことを駅のベンチで殆ど瀕死の状態に
陥っている頭で考えていると他人というのが男のまわりを囲んでいる平板な壁の
ようなものになってくる。個別にそれぞれの人間の顔を見れば見分けることは出
来て、隣にいる人間とその人間が違うものだというのも解っても、結局どこか似
ているその二人の印象から安心してしまって違った所のある二人だという所まで
心配が及ばない。会社員ふうの男が電話で話しながら前を歩いていくだけなら、
その男がいるというだけで済むのに、どうしてまた同じような恰好をしたのが同
じようなことをしながら歩いて行くのか。あるいは
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