幽霊を見る(1)

しこたま酒を飲むと、次の朝になぜこの世に二日酔いという物があるのかとい
う疑問にぶつかることも有れば、そのアルコールによる眠りの浅さから不意に
さわやかに目覚めることもあって、その朝は後者の方だった。そうなるといい
かげん加減早朝に前夜の乱痴気騒ぎのゴミを片づけてまとめて捨ててしまおう
というような考えに至るくらいの余裕がある。ゴミ袋をひきずってゴミ捨て場
に行くとネコが二匹いて、それはシロ猫とトラ猫で、猫を呼ぶときのように腰
を下ろして、すこし指を出してやるとトラの方はすぐにその指の匂いをかぎに
やってくる。体をこすりつけながらぐるぐる回ってぐるぐるのどを鳴らす。シ
ロの方はすこし離れたところでしきりと心配そうにないている。シロは足が悪
いらしくて、それが曲がっていてびっこを引いていた。そうこうしているうち
に新聞屋がけたたましくホンダスーパーカブで現れて、猫どもは逃げまどい、
ひとり道ばたに取り残されているのは気まずくて、たばこを吸って部屋に帰
る。次に目が覚めたのは電話が来たからで、それは夕べ酔っぱらってある女の
乳を揉んだらしいことについての説教だった。それでその女に殴られたらしい
がさっぱり覚えていなくて、幾つかの意味で悔しい思いをしながらも、とりあ
えず飯を食いに表に出ると、もうだんだんと日も落ちてまわりの風景もしずみ
始めて、遠くにはカエルの声が聞こえる。昔の人はそれを春を惜しむ声に聞い
て、今ではそれに夏が近いのを感じると同時に、夏の匂いがし始めていること
も感じる。夏の匂いが一体何かということにも思いは至って、昔のそれは知ら
ないが、それはアスファルトの冷え始める匂いと少し濃い草の匂いとほこり臭
さがないまぜになったものだ。ただ、夏の前にはまだ梅雨が来ることになって
いる。時間が悪いのかどこの店でも座ることができなくて、かといってコンビ
ニの飯なんかは食いあきている。そこで車で少し遠出することを思いついて、
女に電話すると女の声にうれしさが含まれているのが少しだけ感じられてここ
ろが暖まる。女を車でひろって15分くらいで着くはずの店に行くつもりが、
道を間違って30分くらいかかったが、その店で食べた魚は魚の味がして、そ
れはマクドナルドがマクドナルドの味がするのとは大分違う。腹が減れば寂し
くなって、腹が膨れれば幸せだと誰かが言った。それがうまかったのならなお
さらな事で、そういう幸福は帰りに河原に寄ったときもにまだ続いていた。近
くに水が有れば夏の匂いというものは幾分か濃く感じられて、その中には女の
匂いもかすかに感じられ、同時にたぶん幸福も漂っていた。そんな中ではその
女を愛しているかどうかということもどうでもよくなり、ただ同じ時間を過ご
すと言うことが重要で、それは理屈ではなく、女のからだは柔らかだった。遠
くに蝉の鳴く声が聞こえ、この時期の蝉はどういう訳か夜に鳴く。陶酔という
物もまた車に乗れば座席が離れている分だけ遠ざかり、夜の中に溶け出して
いってしまうがそれがそれほど惜しいと言うことはない。帰り道で、車のライ
トのなかに猫の死骸が突然にあらわれて、それは車にひかれて死んだらしかっ
た。むろん二人の乗った車がひいたわけでもないのに、ある空気があたりに流
れて、それはなにか甘ったるい感じがした。女を送って家に帰ると、とたんに
憂鬱になって、でもこんな時に女に再び電話したとしても何も話す事なんてい
う物はない。沈黙が気まずくないのは、手を伸ばした先に女がいるときで、電
話ではそうはいかない。沈黙ということに思いが行けば、それでそれに耐えら
れなくなるようなことにもなり、しかしもう音楽やテレビなんていうものは
空々しすぎた。不意にさっきの猫の死骸のことが思い出され、その猫が今朝が
たのシロに思えて、それは実際に見た以上に鮮明で、頭の割れた部分を下にし
て横渡っていて、そちら側の目玉が飛び出していた。その辺でいいかげん気が
塞いで、部屋の壁にコツコツあたまをぶつけるよりも、研究室にビールの飲み
残しが有ったことが思い出され、そこに行けば他にも酒があり、あるいは誰か
しら人もいるかも知れなかった。原付で夜風を切って学校へと向かうと、研究
室の電気がついているのが見え、ドアノブをまわすと同時に友人がひとりで勉
強をしているのを見つけた。そこには暖かみがあって、夜になってずいぶん肌
寒くなっていたので実際ストーブもついていた。そこでしばらく酒を飲みなが
らいろいろの話をして、その話はべつにつまらなくても全くかまわなくて、
ビールを飲み終わって日本酒を飲んでいるともうストーブもいらなくなった。
友人も勉強をするのはもうあきらめて酒を飲んでいて、またつまらない話をし
た。酒を飲んでいれば、無意味な会話や無意味な時間というものが酔いによっ
て満たされて、それでいろいろの事に耐えることができる。しかし、それにも
飽きてまた原付で家へむかい、学校のすぐ側には廃アパートがある。そこには
以前浮浪者がすんでいたが、今は追い出されて誰も住んでないはずで、そこを
通り抜けざまに、その廃アパートの破れた窓の側に白っぽい服を着た女が見え
て、すぐさまに恐怖を感じるような事はなくても、原付の左側にはバックミ
ラーが付いていなくて、その姿を確認することはできなくて、確認するにはま
た少し引き返さなければならず、そうまでする気分にならなかったのは正常だ
ろう。家に帰っても釈然としなくて、もしかするとあれは幽霊だったんじゃな
いかということに思い至って、女に電話をしてそれを伝えたがまるで信じても
らえなかった。ただその幽霊らしい物が怖いという風にも思えず、もうその後
は壁に向かって一人で話を始めるというようなこともなく、一人で眠ってし
まった。

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