幽霊を見る(2)

  しこたま酒を飲むと、次の朝になぜこの世に二日酔いという物があるのかと
いう疑問にぶつかることも有れば、そのアルコールによる眠りの浅さから不意
にさわやかに目覚めることもあって、その朝は後者の方だった。
 そうなるといいかげん加減早朝に前夜の乱痴気騒ぎのゴミを片づけてまとめ
て捨ててしまおうというような考えに至るくらいの余裕がある。ゴミ袋をひき
ずってゴミ捨て場に行くとネコが二匹いて、それはシロ猫とトラ猫で、猫を呼
ぶときのように腰を下ろして、すこし指を出してやるとトラの方はすぐにその
指の匂いをかぎにやってくる。体をこすりつけながらぐるぐる回ってぐるぐる
のどを鳴らす。シロの方はすこし離れたところでしきりと心配そうにないてい
る。シロは足が悪いらしくて、それが曲がっていてびっこを引いていた。
 そうこうしているうちに新聞屋がけたたましくホンダスーパーカブで現れて
、猫どもは逃げまどい、ひとり道ばたに取り残されているのは気まずくて、た
ばこを吸って部屋に帰る。
 次に目が覚めたのは電話が来たからで、それは夕べ酔っぱらってある女の乳
を揉んだらしいことについての説教だった。それでその女に殴られたらしいが
さっぱり覚えていなくて、幾つかの意味で悔しい思いをしながらも、とりあえ
ず飯を食いに表に出ると、もうだんだんと日も落ちてまわりの風景もしずみ始
めて、遠くにはカエルの声が聞こえる。昔の人はそれを春を惜しむ声に聞いて
、今ではそれに夏が近いのを感じると同時に、夏の匂いがし始めていることも
感じる。
 夏の匂いが一体何かということにも思いは至って、昔のそれは知らないが、
それはアスファルトの冷え始める匂いと少し濃い草の匂いとほこり臭さがない
まぜになったものだ。ただ、夏の前にはまだ梅雨が来ることになっている。時
間が悪いのかどこの店でも座ることができなくて、かといってコンビニの飯な
んかは食いあきている。そこで車で少し遠出することを思いついて、女に電話
すると女の声にうれしさが含まれているのが少しだけ感じられてこころが暖ま
る。女を車でひろって15分くらいで着くはずの店に行くつもりが、道を間違
って30分くらいかかったが、その店で食べた魚は魚の味がして、それはマク
ドナルドがマクドナルドの味がするのとは大分違う。
 腹が減れば寂しくなって、腹が膨れれば幸せだと誰かが言った。それがうま
かったのならなおさらな事で、そういう幸福は帰りに河原に寄ったときもにま
だ続いていた。近くに水が有れば夏の匂いというものは幾分か濃く感じられて
、その中には女の匂いもかすかに感じられ、同時にたぶん幸福も漂っていた。
 そんな中ではその女を愛しているかどうかということもどうでもよくなり、
ただ同じ時間を過ごすと言うことが重要で、それは理屈ではなく、女のからだ
は柔らかだった。

 遠くに蝉の鳴く声が聞こえ、この時期の蝉はどういう訳か夜に鳴く。陶酔と
いう物もまた車に乗れば座席が離れている分だけ遠ざかり、夜の中に溶け出し
ていってしまうがそれがそれほど惜しいと言うことはない。帰り道で、車のラ
イトのなかに猫の死骸が突然にあらわれて、それは車にひかれて死んだらしか
った。むろん二人の乗った車がひいたわけでもないのに、ある空気があたりに
流れて、それはなにか甘ったるい感じがした。
 女を送って家に帰ると、とたんに憂鬱になって、でもこんな時に女に再び電
話したとしても何も話す事なんていう物はない。沈黙が気まずくないのは、手
を伸ばした先に女がいるときで、電話ではそうはいかない。沈黙ということに
思いが行けば、それでそれに耐えられなくなるようなことにもなり、しかしも
う音楽やテレビなんていうものは空々しすぎた。不意にさっきの猫の死骸のこ
とが思い出され、その猫が今朝がたのシロに思えて、それは実際に見た以上に
鮮明で、頭の割れた部分を下にして横渡っていて、そちら側の目玉が飛び出し
ていた。その辺でいいかげん気が塞いで、部屋の壁にコツコツあたまをぶつけ
るよりも、研究室にビールの飲み残しが有ったことが思い出され、そこに行け
ば他にも酒があり、あるいは誰かしら人もいるかも知れなかった。原付で夜風
を切って学校へと向かうと、研究室の電気がついているのが見え、ドアノブを
まわすと同時に友人がひとりで勉強をしているのを見つけた。

 そこには暖かみがあって、夜になってずいぶん肌寒くなっていたので実際ス
トーブもついていた。そこでしばらく酒を飲みながらいろいろの話をして、そ
の話はべつにつまらなくても全くかまわなくて、ビールを飲み終わって日本酒
を飲んでいるともうストーブもいらなくなった。友人も勉強をするのはもうあ
きらめて酒を飲んでいて、またつまらない話をした。酒を飲んでいれば、無意
味な会話や無意味な時間というものが酔いによって満たされて、それでいろい
ろの事に耐えることができる。しかし、それにも飽きてまた原付で家へむかい
、学校のすぐ側には廃アパートがある。そこには以前浮浪者がすんでいたが、
今は追い出されて誰も住んでないはずで、そこを通り抜けざまに、その廃アパ
ートの破れた窓の側に白っぽい服を着た女が見えて、すぐさまに恐怖を感じる
ような事はなくても、原付の左側にはバックミラーが付いていなくて、その姿
を確認することはできなくて、確認するにはまた少し引き返さなければならず
、そうまでする気分にならなかったのは正常だろう。家に帰っても釈然としな
くて、もしかするとあれは幽霊だったんじゃないかということに思い至って、
女に電話をしてそれを伝えたがまるで信じてもらえなかった。ただその幽霊ら
しい物が怖いという風にも思えず、もうその後は壁に向かって一人で話を始め
るというようなこともなく、一人で眠ってしまった。

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