サッカリンと私(ざっくりいうと)
1995年ごろにさかのぼるだろうか、いまから20年ぐらい前、なんだか知らないが都内の図書館やら古本屋に行って明治大正昭和の文学者の対談やエッセイを読んでいた頃があった。
ある作家が別の作家について語る、というスタイルの引用を、誰に見せるわけでもなく、しこしこと都立図書館だか上野の図書館だかで読みあさっていた。ほんとうに、そのころはちょっとあたまがおかしかったんだと思う。
「肉体は悲しんでいて本はみんな読んでしまった」というセンテンスを知っている人は分かると思うが、物事には一分野制覇、みたいなジャンルの消費の仕方がある。
世の中の本を全部よむわけにはいかない。しかしながら、作家の対談だけだと、結構気合いれれば日本で出てるものは全部読める雰囲気が当時はあった。いまもたいしてかわらないかもしれない。
たとえばある時期のファミコンゲームの種類全部やっただとか、トーキー前の映画全部見ただとか、冒険少年の手塚先生の作品読んだとか、貸本時代の水木先生も漫画もってるだとか、家の庭にガンダムがあるだとか、オタクという言葉がうまれる以前から、おかしな考えをもち行動にうつす人間というのは後をたたない。おそらくこれは、動物のマーキングみたいな習性と関連性がある。あつめたところで君たちの無気力でけだるい目線は変わることがない。
作家と呼ばれるひとびと、その人らは複製芸術時代の入り口で、その作品が映画化されて有名だったり、円本に名前がのったから有名だったりする。作品自体、それほど読まれた形跡がない場合でも、いわゆる出版界バブルのようなものがあって、三代くい潰せるような富と名声を得る場合もある。その頃どでかい戦争が二度もあった。
無数の対談や評伝から察するに、文士、といわれる20代後半の青年たちは、たとえばトキワ荘の住人だとか、ジャズメンだとか、あるいは君の近所でくだをまいてる変わった青年らと、なんらかわりはない。菊池寛みたいな資本を持ったわるいおとなが、小金をやったもんだから人生のチューニングをすこし狂わされた、おとなになりきれない子どもたち。そんな印象が作家にはつきまとう。
最後はガス管くわえたりカツ丼くってたり、よぼよぼになりながらも、後世誰も読まれないような無価値の作品を書いてまわりからは崇拝されたりされてなかったりする。私は作家の行動自体にすごく人間臭さを感じる。だから作家の作品そのものは、正直私にとっては不要で読んだこともない物なのだが、作家を作家たらしめるために、ないよりはあったほうがよい。そしてこれからもそれらの作品や作家は有名であってほしい。
そんな作家たちの輪廻転生を願うきもちが、いつしかこの引用群にサッカリンという名前をつけさせた。
